第12話 麻子の話
食事を終えると家を出た。地下鉄は混んでいたが吊り輪を持てない人はいなかった。
河原町へ来ると凄い人盛りだ。丹後半島の静かな人通りが恋しくなりそうだ。一体こいつらは何しに来ているのか思う、俺もその一人だから笑ってしまった。加納はここで菊地麻子が指定した喫茶店がある路地裏を探し、賑やかな通りから一つ逸れた細い路地に入った。人通りは十分の一になった。都会のど真ん中に現れたこの静けさは何なのだ。ここは母との葛藤で心の迷路を彷徨う人間には時間が優しくスローに動いていた。
直ぐ右手の土塀の中程に山門があった。門は開いていたが入り口は格子で閉ざしていた。格子越しによく手入れされ数時間も見飽きない庭が見えた。土塀と反対側左手に喫茶店があった。ガラス戸から中がよく見えた。客は疎らでテーブル席にいた彼女を直ぐに見付けた。人聞きのニキビ顔を思い浮かべてその面影が残っていた菊池麻子を確認して座った。
二十年振りかしらと五十前の女が妙に子供っぽく笑った。どうやらその頃の俺は彼女の膝の上に乗ったことが有ったらしいがまったく記憶になかった。彼女も憶えていないのを幸いに言った。
昨日遅く加納は照美さんに頼んで菊池麻子さんとの接見の
「初めてというか物心ついてから初めて丹後の例の町へ行ったのね。照美さんも言ってたけどだいぶあの町も変わったらしいわね。昔を知らない人にどう変わったかなんて解りはしないけれども……」
過去には絶対的な指導者が町長をないがしろにして民主主義が歪められていた。しかし地元の人は多数決が民主主義なら町は極地を行っていた。それが最近は何処まで修正されたのかしらと麻子は懸念を示した。
「それは照美さんから訊いてませんか?」
「でもあの人はずっとあの町に住んでいるから井の中の
山間部も限界集落になってないかしらと真面目に聞いてきた。
「国道添いには都会と変わらないスーパーや店が進出して建ち並んでいます、しかし心の奥底は誰も覗けませんから何処まで修正されたかは根を下ろしてみないと何とも言えませんよ」
出て来た加納の珈琲を見ながらフーンそうかと何を考えているのか判らない素振りですでに頼んだテーブルのバニラアイスクリームを食べ出した。横のコーヒーはそのままだった。
「わざわざそんな所へ何しにし行ったの」
「丹後の祖父が亡くなってそれで遺産の整理に行った」
「じゃあみんな早々に愛想良く出迎えてくれたのでしょう後々問題が起こらないように」
「問題って何なのです」
「お母さんは何も言わなかったの二十年前の事件を、嗚呼これって事故になってるのね」
「積んでたタイヤチェーンが無くなっていたこと」
「それは向こうで聞いたの?」
「主に照美さんからだけど他の人はその話になると話題を変えられていつも尻切れトンボ、だって肝心の母が何も言わないんだもの判りっこない」
「それでお母さんと仲が良かったあたしに会いに来たってわけか」
肝心な所で歳に似合わずスプーン一杯にしたクリームを頬張る麻子を見て神経を疑った加納は軽く頷き一口珈琲をすすった。案外母はこういう神経の人に胸のつかえを吐き出していたかもしれないと期待した。だから彼女のペースを崩さないように細心の注意を払った。
「それで何か母は言ってましたか」
「あのお父さんが、あなたにはおじいさんね、が怪しいと睨んだのそして有る日追究したの」
「ちょっと、待って! 実の息子を危険な目に合わすはずがないでしょう」
「一番疑われにくい人が適任なのよ」
昔はそこまで民主主義が歪んでいたのか。
「証拠は」
「ない、わ。有るわけ無いでしょうだって事故だったんだから」
「でも事件でしょう」
「今はね、でも当時は事故として地元の警察も処理していたンですものそれを耀子さんが覆すのは不可能、いえ、無理、それほど見極めが難しくて、本人の過失を指摘して証言する人ばかりで話にならなかったの。井久治さんはどっちか言うと人付き合いも上手くなく誤解されやすい人柄ですから難しいそうだった」
「じゃあ母は居ても立ってもいられなかった」
「だからお母さんはこれ以上は蒸し返されたくないの。再婚相手にも申し訳ないでしょう、旦那さんは気にしてないと言われても内心は穏やかじゃあないのが人の常、あの町は環境が周囲の人に与える影響が強すぎた。だからここで今日聴いた事は忘れてもっと前向きにしていれば、いい人は必ず
「と言うと」
「あの町はみんながみんな一枚岩じゃないのよでも異を唱えて村八分になりたくなかったから風向きが変わるのを待っていた人もかなりいたの」
母は麻子さんに連絡を取ると、息子が婚家に行った事情も説明したらしい。
「だからあの後に解ったけれど『町があの山林で発展すればあなたの取った行動は称賛される、その為にはあたしは知りませんがその分家の波多野遼次さんと言う人をもっと観察しないといけない』と照美さんは言ってました」
「確かに調子の良い人ですし熱意は感じますね」
「出る杭は打たれる、昔のお父さんのように打たれ上手な人も居ますから」
「誰かしら」
加納は謙遜したつもりだがこの人はどうとったのだろう。
「それより麻子さんは昔のぼくの父をどれぐらい知ってるんです」
「ホウそこへ来たか」
軽いノリで昔のニキビ顔が懐かしく蘇るようだった。
「そうね大人の顔をした子供って言うか」
そこまで言って麻子さんは思い出し笑いをした。
「
なんか飛躍していないだろうかこの人はと加納は思った。
「その時からこの人をバックアップしたげると思ったから耀子には気の済むぐらいに、あの人の良さをアピールしてあげたからあなたが今ここに存在して要るのを忘れちゃダメよ」
どうして父の思い出を彼女は子孫にまで押し付けてくるのか、それほど父が植え付けた強烈な印象を話途中でこっちへ急に振り向けられても戸惑いは隠せなかった。幾ら思案してもこれが麻子さんと云う人なんだと決めるともう、加納の頭からは何も湧いて来なかった。
二人はこの日から受付で顔を合わさず、事前連絡で休みや夕方の仕事明けに逢って一緒に送ってもらっていた。どうやら二人は麻子さんの努力が実って急接近したらしい。
ーー井久治さんは耀子さんと一緒になってあの町を離れるつもりだった。その訳を聴いて耀子さんは「逃げちゃダメ」と奮い立たせた。この人は立ちはだかる壁には尻込みする癖があった。それを乗り越えた先に見える拓けた人生を見付けて欲しい。その為に伸るか反るかのここが人生の分かれ道と耀子は寄り添った。この時に照美にはなかった瞳の輝きを見付けた。彼女の瞳の輝きはそのまま彼の胸の中に染み込んで行った。渇いた心が一気に潤った。いつもその潤いを与えてくれる人に
心が通じ合うとはこういう物だと核心に迫る麻子のレポートに、この科学が踏み込めない領域が愛なんだと加納は実感できた 。
一年草は花が開くのが一瞬で有るように、母が本当の恋をしたのはこの時だけだった気がした。
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