第6話 亡父・波多野井久治
智恩寺の駐車場を出ると片瀬は再び海岸沿いの国道を北へ走る。
片瀬成美の母、
五十に手が届く母の照美は車の音で台所の窓から娘と加納を確認してさばいた魚に下処理をして冷蔵庫にしまって二人を居間に迎えた。母はグジ(甘鯛)が安かったから夕飯にどうかと聞いてきた。夕方には宿に戻るからそれは困ると成美に止められた。それよりここに座ってゆっくり話してあげて欲しいと娘に言われてお茶と草餅を用意して座った。
片瀬照美は
それがそのまま入学しても続き、学校から帰ると鞄を玄関に放り投げて一緒に遊びに行った。何もない田舎だから近在をみんなで探検する。けれど井久治くんは弱虫ですごく怖がりだった。いつもあの子は一番後ろから付いて来ていた。誘わなければ家で一人よく本を読んでいた。
「何の本ですか」加納が聞いた。
「何の本かよくわからないけど文庫本の小説を鞄によく入れて普段は小脇に抱えて歩いてた。運動は苦手で走りではいつもべっちゃこ、でもさっぱりしてるの悔しくないって聞くと別にって。とにかくつかみ所のない人だったけど凝り性なの地道に何かをコツコツとやるタイプで努力家というより思い詰めるとトコトン埋没していた」
「でもお母さんはその人と一緒になるつもりだったのでしょう」
「親がその気だったからあたしも高校を出てから一緒になるならこの人でいいと思ってた」
娘の話では小学生から一気に社会人まで飛んでいるけれどささやかな喧嘩以外は大きな問題は起こらなかった。井久治さんが学校を出て実家の丹後ちりめんを手伝って京都へ行き始めた。兄が工場を継いでいるから最初の一年はお父さんと一緒に京都の得意先関係の仕事をした。それで得意先と顔つなぎが出来ると一人で出かけた。その頃からはあたしとは顔を合わせにくくなった。それは仕事がそれだけ忙しいからそれで将来への希望にもなった。
暫く遠くから彼の仕事ぶりを見守るうちにある変化に気付いた。それはある夕暮れに彼は得意先からの帰りに、バス停にいるあたしを見付けて近所の家まで送ってもらった。その時の彼は変わらないのにいつもとなんか居心地が違っていた。
先ずは助手席の位置が少しズレていた。車は営業用のライトバンタイプで運転席より後ろは座席シートを倒してすべて反物や着物の図案や草稿を常に積んで、人は稀にしか乗らないから助手席はいつも固定位置だった。それが最近は別の位置にずれていた。最初は得意先の人が乗るんだろうと思ってみたが男性にしては窮屈な座席位置だった。それからあたしが送ってもらうときはわざと大きく後ろに調節した。しかしいつ乗せて貰ってもそれは前に動いていた。あたしと同じ小柄な人らしいけれどいったい得意先の誰なのか気になった。
「その内に相手が得意先の事務関係の女だと解るともうどうってことはなかったのね」
「それでちょっと油断した」成美が言った。
「そう油断大敵とはこの時のあたしの為にある言葉だとつくづく思った。まさかあの意気地なしの井久治がこの日本国憲法より優先するこの町の民主主義のしがらみを踏み越えるとは誰もが思わなかった」
お母さんは熱が入ると比喩が大きくなると初対面の加納に説明を入れた。
「最初はそう云う些細な事だったんだけどそこから詳しく観察し始めるとある疑問が真夏の雲のようにブクブクと湧きだしたの」
「その入道雲はいつ激しい雨を彼の頭上に降らせたの」
成美は母に愚問した。でも母は笑って答えてくれた。
「それはズッーとあと」
「じゃあそれまで耐えていたの」
「ううん、あの人にとっては何でもない女だと信じていたのでもあの人も女もそう思ってなかった」
その内に休みの日も出掛けるようになったある日曜日、天橋立を見たいと彼女に言われて連れて来た。
得意先の関係の人だからこれも仕事の一環なんだと思い込んだ。それこそこの町は古老の発案を多数決で決めた民主主義と云う強い絆で結ばれているから誰も間違いは犯さないと思った。それはみんなで暗黙の了解で決めたもので、これが民主主義と云うこの国にもある基本がこの町にも芽生えていた。だからみんなそれに従って暮らしていた。井久治さんも仕事として割り切って今は付き合っていると信じていた。
この町の人は輪っかのように一つの
この調和が壊れれば不幸になると此の人の輪を大切にした。そんな古い伝説が少し前まで少なくとも加納の父が亡くなるまでかろうじて残っていた。照美の実家はその崇拝者だった。
今は彼女の夫は漁師で二、三日は帰って来ない。成美の妹はクラブ活動で日暮れまで学校から帰らない。成美は土日を入れて週四日あの民宿にバイトに行っていた。スナックの子が休むと頼まれれば夜の八時から零時前までバイトに出る時もあった。
照美から零れてくる加納の母に関するものはやはりその息子を前にして少しオブラートに包み込まれてしまった。それでも成美の合いの手で加納の母の実態が垣間見えた。
どうやら母は室町の問屋街でも結構モテたらしい。そんな母を射止めた井久治にはこの町の因習どころではなかったようだ。
父が誘った最初のデートは母と仲が良かった同じ事務員のニキビ面した仲の良い子に話し込んでそこから母との橋渡しをしてもらったようだ。
「じゃあ父は奥手だったんですか」加納が聞いた。
「意識しなけゃあどってことなかったんですが振られたら生きていけないって言ってたらしいけど」
「決め手はどうしたんでしょう」
「向こう側は面倒くさくなっちゃってあたしのことどう思ってんのと突っ込まれたらしいの」
「詳しいですね」
「さっき言ったニキビ面の女の子から聞かされたから」
じゃあうちのお母さんは相手とは張った切ったのとやり合わなかったんだと娘が割り込んで来た。
ーー燃えるほどの恋じゃなかった。だって小さい頃から兄弟みたいに一緒に日暮れまで遊びほうけていた人でしょう。だからそのまま暮らすんだと周りの人たちに思われていた。それがあなたお母さんによって取り払われてしまった。でも不思議とそれほど目くじらを立てる事もなかった。この町が暗黙のうちに代々守り続けたものが井久治の前に大きく立ちはだかり、それがあの縁談を押し潰すと思った。でも彼のガラスの神経を鋼にしたのは彼女への一途な愛だった。これには脱帽した、いや愛が導き出したとてつもない彼の力をあたしは称賛した。
照美はその日を回想した。あれは冬だった丹後の冬は十二月には雪が降り始め年の瀬にはもう積もり出す。本格的に積もるのは歳が明けてラッセル車や除雪車が出てからだ。そうなると身動きが取れなくなる。だから井久治さんはあの女と一緒になると季節に追われるように決めた。この難題も丹後の厳しい季節が後押してやっと腰を上げた。春になればまたそのまま越年するほどの意志薄弱な人だから……。北風に心をむき出されたように彼はがむしゃらに世間と闘った。先ずは頑固な古老たちにひと泡吹かせる。
彼は快く思わない孤高の長老に意見をした。最初はおとなしい彼が従うためにやって来たと快く家に上げた。酒まで用意して卓に着かせてもてなし、本庄家と波多野本家の照美と井久治の幸ある門出を祝い出すと彼は突然に異議を唱えた。
「お前のやろうとしているのはこの町の秩序を破壊しょうとしている」
「親が望んでも本人にその意志がなければそんなもんは無意味なものだ」
「親たちは特定の個人でなくこの町全体を思っている」
「そんなもんだから若者は去り年寄りだけが残りやがて最後には限界集落に辿り着く」
「無限の自由は伝統と文化を破壊する」
「年輩者の頭の中にあるのは間違った伝統と今の生活に交わらない文化だ」
「その価値観は誰が決める。わしら古老の長い経験と養われた勘でこの町は護られてこれからも未来永劫に託していける」
彼の熱意はプライドと伝統の後継者たる守護者の古老を傷つけた。穏やかに理路整然と話す彼に古老は取り合わずに怒鳴りつけた この仕来りが最後の限界集落を作り出す原因だと暗に戒めると古老の堪忍も限界に達した。彼は雪の中へ叩き出され以後はこの町での活動を大きく制約された。
彼はそれに耐えて多くの者の理解を説くと、町を二分する原因の首謀者に祭り上げられ、不自由な限定された生活を余儀なくされた。それでも彼は活動した、いや意地になった。
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