第5話 智恩寺
予定ではこの日の午後から伯父さんと会うはずだったがそれを未定にしてもらった。伯父さんの方は役所の波多野さんに一任してあった。苦労しているだろう甥っ子に会うのを楽しみにしていると聞かされて安堵した。その波多野さんは片瀬にメールを送りお母さんのことを話す様に催促した。折り返し一時間後に授業が終わるからと会う都合を付けてくれた。片瀬とは
天橋立には三十分で着いた。加納はここで散策して暫く時間を潰す。
波多野はこれで最悪の状態を脱することが出来そうだと安堵していた。波多野道幸がもしも反対すれば遺産を加納さんと均等分させれば彼は折れるだろう。折れなくても価値の低い山林だけでも加納さんが相続できれば良かったからだ。そんな期待を抱かせるように波多野はこまめに世話を焼いてくれた。それに引き替えいとこの片瀬は無頓着というより我関せずだった。
ゆっくり歩いても二キロもない天橋立の
「さっきまで波多野さんにおじいさんの山林を見せてもらいました」
「あたしも一度見せてもらって彼の意気込みは解るけど風光明媚だけで何もない中途半端な場所なのよね」
これには加納も頷いた。
「そこを一大レジャーランドにするらしいですよ」
「もう感化されたの、しっかり考えないとダメになりますよ。役所がやる商売なんてやり方が甘いから先ずはどれだけの人が来てくれるかじっくり調べる必要があるんではないの」
最初は面白半分で人が来ても飽きられると投資が無駄になり負債が重くのしかかる。税収の少ないこの町でその借金を返すのは大変なのよと彼女はこの町の行く末を案じていた。それがあの人の裁量ひとつに掛かっているなんて危なっかしくてどうかしているとも言った。
「加納さんの住んでる街では有名な寺院が沢山あってしかも観光客も修学旅行生でごった返しているでしょう。丹後にはこの天橋立だけ、しかも京都に比べてそんなに多くないから負債を抱えれば返済するのが大変。だから加納さんはこの話に首を突っ込まないで相続権をサッサと放棄した方が得策よ」
もし失敗すれば亡くなったお父さんまでこの町の人に恨まれて悪く言われる。
「でも役所の波多野さんには世話になってるし……」
「まだ昨日の今日で日も経ってないのよ」
「それよりぼくは遺産より別の目的で来たのを片瀬さんは聴いて居るでしょう」
彼女は足を止めて数歩先の目ざとい店を見付けていた。
それは立ち話じゃあ何だからと商店街の外れにあるこぢんまりした喫茶風の店に入った。
席に着くと軽食にスパゲティを頼んだ。それと珈琲を頼むと彼女は直ぐにあなたのお母さんは優しいそうな人に見えたと印象を言った。
「初めてあなたのお母さんに会ったのはあたしが三つの時だった。その時にあなたも居たけれど憶えてないよね、隣に居た人が新しいお父さんだと気付いた。お母さんはお腹が少し大きく見えた。それが多分あなたの妹の沙織さんね」
お母さんは波多野から加納へ戸籍を変える為に来たらしい。それは断片的だったが朧気に憶えていた。
「僕が訊きたいのはそれ以前なんだけど」
「せっかちな人ね大河ドラマみたいに順序だって言えるわけがないでしょう。今こうしてあなたを目の前にして浮かんだ光景からひとつひとつ手繰りで寄せて行かないと急には無理でしょう」
それもそうだ突然に現れてアリバイ調べのように二十数年前を聞かれても困るだろう。
「とは言ってもあたしのお母さんと亡くなったあなたのお父さんとは以前に丁度そんな風に初めて会ったのだから勿論お母さんは祖父母に聞かされて知ったけどでもあなたのお父さんは憶えていたそうよこの場面を何度も聞かされたらしいの」
出て来たスパゲティを食べながら彼女は語りだした。
親同士が仲が良いからお母さんの手を引かれては近所で二人はよく出会い親同士が話すと二人は近くで一緒に遊んだ。その続きで入学してからも一緒に登下校した。学校を出て社会人になった井久治さんは家の丹後ちりめんの工場を手伝った。お兄さんが工場を任されて井久治さんは営業で京都まで車でしょっちゅう出掛けていた。
「小学校の入学式の後は社会人、随分飛んじゃうね」
「まあねぇ途中はうちのお母さんに訊いてもサッパリ埒があかないのよ加納さんの方は」
もっと歳を喰わないとどうも若い頃の際どい話は避けたがる傾向があった。
「まあうちも一緒でそれに亡くなった父の話が来なければこんなに興味を持たなかった」
あの手紙は遠いあの世からの父の便りのような気がしたからだ。
「それでここまでやって来たのね、
社交的で余程話し好きなら別だけれど、恋した頃と同じ様な年頃になった息子に母親が喋るにはもう少し年季が入りそうだ。
「いとこの
本当にそうなのか加納には不安だった。
「ウ〜ンそんな人のところへ行って塩を撒かれませんか。それって顔をだしても良いんだろうか。そこは鬼門じゃあないでしょうかね」
「心配性ね、嗚呼、ひと月前までは学生さんだったのか。でも心配ないわ、もう
「ついでに気になったのだけれど亡くなった父の墓って何処にあるの」
ついでに気になったのは彼女の子供扱いで加納はれっきとした社会人だった。
「それは先祖代々の波多野家のお墓はあの近くに有るの。あなたのお父さんのお墓は伯父さんがお世話をしているんです」
「伯父さんか、その伯父さんはどんな人です」
「丹後ちりめんの工場で機械織りを四台ほど動かしている。子供は三人居て奥さんは近在の平凡な女性です。この縁談は伯父さんのお父さん、祖父が決めた人なんです」
「親が決めた人ですか」
「そう驚くものじゃないわよ僻地では血縁がこそが大切なのです」
「それじゃあここでは恋愛は御法度ですか」
「封建社会の世の中ならともかく現代社会に於いては笑い話にもならないわ」と言いながらも彼の言い方が余程に面白かったのか片瀬は吹き出して笑った。
「それじゃあ片瀬さんのお母さんもこの法則から言えば一緒になっても
「そうね問題は井久治さんにあったのね」
「それは不可解な、民主主義が保障されたこの現代においてさえなお厳格なこの町の御法度を父は破ったのか」
「相手が見えない今日の匿名のネット社会では個人の尊厳をないがしろにするのはよくあるけど、当時のこの町ではそれは大変なもので井久治さんはその嵐の中で
「それでその嵐は直ぐに収まったのですか」
「突風は長く吹くものじゃないですから、でも都会と違って遮るもののない荒野に吹く風は根こそぎ倒して行きますから、今でこそ」と片瀬は商店街を通る観光客に目をやりながら変わったけれどと付け加えた。でも清水寺に続く二寧坂、産寧坂はここよりもっと人通りが凄かったと言いながら二人は店を出た。
これ以上の詳しい話は当事者の片瀬の母に聞くしかないと彼女の車で自宅へ向かった。その前に加納の父が眠る墓地へ案内した。
墓地は海岸から少し入った山すそを段々に整地された少し開けた所にあった。下に車を駐めて石段を登り切ると整然と墓石が並んでいた。彼女は迷わず波多野家のお墓まで案内してくれた。
「良く来るんですか」
「お盆とかお彼岸はみんな来て顔を合わすからあたしは時間をずらすけどそれでも顔を会わすとこの町を出るのかと聞かれるから何だかやりにくい、今でもそうだから二十数年前はもっときつい言葉を浴びせられたんじゃないかしら」
まあそれもうちのお母さんから聴いて頂戴と片瀬は神妙な顔付きになった。
「今日ぼくが伺うことは知ってるんですか」
「それはいとこから頼まれたときに今日辺り連れて来ると言ってありますから多分待ってるはずです」
あの女の人でも随分とご無沙汰なのに、まして井久治さんの息子さんなら会ってみたいと言っていた。その言葉に加納は幼馴染み以上のものを感じ取った。
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