第3話 丹後にて
彼は玄関に居た片瀬を掴まえて海岸を散歩に出ると告げた。十分も歩けば魚市場だから行ってみたら夕方で何もないけど言われた。何もないところを勧めるなんてと思いながら表通りを市場に向かって歩いた。夕陽が綺麗でそっちに気を取られた。朝になって船が次々と帰ってきて岸壁から水揚げされた魚が一斉に市場に並び仲買人が次々と競り落としてゆくここが賑わうのはその一時だけで今は廃墟のように海鳥がたむろしていた。市場の建物を抜けて岸壁まで歩いた。舫いの杭が等間隔で並んでいた。漁を終えて帰港した漁船がここで水揚げをするのかとひとつの杭に腰を下ろして海を見た。
母はどこで生まれたのだろうどうして今まで聞かなかったのだろう。学業や友達関係の維持で精一杯でそれらから解放されて社会へ出て始めてその余裕が出て来たんだ。弟たちは自分のことだけでまだ我関せずだろう。それが学生の特権だろうかまあ親がしっかり者の場合だろうな家庭崩壊すれすれの家族には縁がない、俺もそうだったように弟たちにはまだ別の世界だった。安定した家庭があれば母はなにも苦労しないで過去の経緯など子供たちに強いて話す必要がなかった。
湾の正面を塞いでいる島のおかげでベタ凪の海は穏やかな母のお腹の中に居るような安らぎに包まれる。ここが母親の胎内とすれば毎朝ここに水揚げされる魚は母乳のように体の中へ栄養になって吸収されるのか。
子供が増えて家族ができる。それぞれが家庭を持って独立するまではこれは運命共同体で切っても切れない輪で繋がっている。その一端が今社会へ飛び出してそれでこの家族の弱点になってはいけないと己を戒めた。
あの子がここを勧めた理由を勝手に解釈した。暫く喧騒だった朝の市場を想像してからまた海岸通りを歩いた。後ろからクラクションが鳴った。振り向けば波多野さんが車の窓から顔を出した。
「片瀬から何か訊きませんでしたか」
「別にすぐに夕食の準備に取りかかってるみたいで散歩に出るって言うとここを勧められた」
「そうかでもここは朝が活気があって見てても色んな魚が目について面白いのに。この時間ではしょうがないか近いけど宿まで送ろう」
漁船は朝しか水揚げをしないのか聞くと、魚種や定置網の漁は無線で寄港を報せて漁協が仲買人を集めるが今日は無線がないそうだ。がっかりすると疲れが出た。
行きしなは珍しくてドンドン歩いてしまった。言われて帰り道を思うとありがたさが身にしみて送ってもらった。
波多野さんも今日から連休だけど公務員だから旗日以外は出勤だから飛び石連休になった。民間と違ってこういうところは融通が利かないとぼやいていた。
「それで亡くなった祖父のおじいさんだけどどんな人なんです」
「それは俺より片瀬成美の方が詳しんだ。だから彼女に説明してもらおうと思ってけど宿の人にはこれから行って時間を空けてくれるように頼みますからそれから親戚筋に加納さんを紹介して回りますからよろしく」
よろしくと言われても返事のしようがなかった。
宿に戻ると
さっきと違って西の空の果てが青空から微かなオレンジを挟んであかね色に染まっていた。窓越しにその景色に見とれていると夕食が運ばれてきた。運んで来たのは片瀬成美さんだった。彼女は受付と仲居もするのかと座卓への配膳を見とれていると飲み物を聞かれてビールを頼むと彼女は直ぐに三本用意した。
そんなに飲めないよと云うと残りは冷蔵庫に入れればあとでカウントしますのでといたって気にしていない。まあいいかと加納は席に着いた。彼女は波多野さんに言いくるめられていたのか向かいの席で相手をした。
波多野さんとはいとこだと聞いたと話を切り出した。この町ではそういう親戚はいっぱい居ますからいちいち気にしていませんからとアッサリと躱された。
これでは話の切っ掛けが掴めない。逆に何を思案されているんですかと片瀬に突っ込まれてここは初めて何ですと取って付けたように答えた。
「あなたには初めての土地でもあなたのお父さんの生まれたところなんですよ」
片瀬は彼の不安を取り除くように優しく微笑んでくれた。見知らぬ土地でこれほどの援護射撃はなかった。でひと言ありがとうと返した。彼女は思わせ振りに笑ってくれた。
「あなたのお父さんが生きていたらこの町では良い仕事をされたのにと親たちが言ってたのよ」
「頼りにされていたってことですか」
「斬新だったのよあの当時としてはみんな早々にあなたのお父さんには付いて行けないって言って疎まれたのよだから今ではその子が来るって聞いただけでみんなは粗末には出来ないって噂しているけれどでもあたしはそんな昔話知らないからどうでも良くってよ」
でもそれはあなたの勝手と今度は意味ありげに笑った。その
「下で波多野さんとはそんな話をしてたのですか」
「聞こえたのかしらそんなわけないわねぇ、それに似た話は結構あるから」
彼女は階下の出来事には何もなかったように食事を勧めた。どうやらこの食事が終わると彼女は仕事から上がれるらしい。だから時には忙しなくそれでいて適当に世間話をして食事が終わると近くのスナックに誘った。こんな田舎にもそんなしゃれた店があるのかと期待した。
潮の香りが浜からやって来そうなしょぼくれた町中にやけに目立つネオンサイトの店が幾つかあった。漁師町だから海で付いた潮風を贔屓の女の子の瞳で洗い落としにやって来るのよと片瀬に言われた。そんな海の男が来る店は落ち着かないから困るなあとぼやくと「何言ってんのサラリーマンなんて管理社会じゃないの漁師は自分の腕一本で生計を立てて生きているのよ」と言われた。
「でも片瀬さんはいずれ都会へ行くんでしょう」
「ここは砂の楼閣じゃないから人間関係は都会よりもきついのよ」それっきり黙って付いてこいと言わんばかりに彼女はサッサと店へ向かった。
中へ入ってみると波多野さんが狭い部屋のボックス席で待っていた。この人はどこまで関われば気が済むのだろうと思った。すると彼は私はあなたに賭けて要ると急に訳の分からない事を言い出した。
もっと解るように説明して欲しいと頼むと彼は遠い彼方を見た。傍で片瀬がこれが此の人の思わせぶりな話し方なのよと薄笑いを浮かべていた。そんな片瀬を尻目に彼は波多野家の過去を少し喋った。
もう二十数年も前で俺が五つの時だった。するとこの人は三十前後になるんだ。
「それでどうしました」
「二人は一緒になった」
お見合いじゃないんだからどの様にという途中がつまりは恋物語が恋愛になった動機が抜け落ちている。それを波多野は語ろうとはしないから加納も話題を地下鉄に変えた。
大都会では電車は地下を走るそれは出入り口のあるトンネルとは違う何処までも続く長い闇だった。毎日都会ではその闇の中を人々が無言で小さな手持ちの画面と対面して行き交ってた。波多野さんが都会で見た通りの同じ風景が地下でも起きていると進言した。
「不思議ですね彼らは何を惜しんでいるのですか時間じゃないのは確かですまるで時間を惜しむのでなく潰しているんですよ 」
「それはもったいない限られた人生を潰すなんて」
「使い切れない時間を彼らは持て余しているんですよもったいない限られた人生を……」
「じゃあ加納さんは社会人になって毎日そんな光景を気に留めていたんですかそんなつまらない人生を今から送ることはない」と波多野は笑いながらも真剣な眼差しを寄越した。片瀬はそれをつまらなさそうに眺めていた。
社会へ出てひと月の人にその質問は酷って言うものよと突然に片瀬が割り込んだ。
「いや世間はこんなもんだと早く気づかせた方が彼には良いと思ってさ」
「ちょっと違うんじゃないの本家の波多野さんから言われたことと」
この二人は加納のことでどこまで共通しているのか気になった。だが片瀬は無頓着に突っ込んでくる。例の相続権で彼女が言うにはそんなもんはさっさと放棄して書類に判を押して伯父さんに突っ返せばよいと実に乱暴に言った。
おいおいまだ丹後に着いて伯父さんに会う前からそれはないだろう。俺の苦労を帳消しにするなよと波多野は引きずる目元を押さえて無理に笑った。
「ただの近所づきあいの手前で役所の相談相手で引き受けただけでしょうボランティアもほどほどにしたら」
「何言ってんだこの町のために一役買っているのにそれぐらいは解りそうなものなのに」
ホウぶりっ子するのかと片瀬はちゃんたら可笑しいと云う顔をした。
こんな風に話す二人を見ているといとこよりもっと近い兄弟に見えてきた。
この町での自分の境遇をこの二人から補足を試みて、当てにして聞き始めたのに二人の話は段々と逸れていった。
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