第2話 丹後

 丹後から来た伯父の代理人の波多野遼次と別れてから、彼の人柄に惹かれて丹後行きを決めると帰りの地下鉄は心地よい子守歌になった。

 自宅に帰ると台所から真っ先に難しい顔で様子を窺う母に今朝と変わらない笑顔を見せた。母は安堵してそのまま一息ついて夕食の支度をした。

 英一は二階の三畳の自室に籠もった。襖一枚隔てて隣の八畳をカーテンレールで仕切った二部屋が妹弟二人の部屋だった。要するに二階は襖とパーテションで仕切られた三部屋に子供が居て、階下が食堂兼用の居間と両親の寝室だった。

 妹は今年から専門学校に行っていた。弟は来春に高校を出るからこれから受験勉強のスタートラインに立ったところだが志望校は未定だった。兄の英一のように学費は自分で稼ぐつもりらしかった。

 公務員の父はいつも定時に帰り、夜の食卓はいつも全員で食べる。今日も同じ顔ぶれが揃ったところでみんなで箸を付けた。

 連休を前にまず父が社会人となってひと月をそつなくこなした英一に羽目を外しすぎないように機嫌良くたがを締めた。母は我が子に届いた手紙がこの先それほどの障害にはならないと誰にも云わず胸の内に閉まっているようだ。

 それで安心して英一はわざと母の顔を避けてそのまま食卓に着いた。いつもの顔ぶれで囲んだ食卓だが母と英一は心の距離がいつもとは違っていた。別にケンカをしたわけではない、ただ突然に訪れた過去の新婚の記憶に母はついて行けないからだった。気恥ずかしいのか辛い想い出なのか、真相を知らない息子の戸惑いがこの距離になり、同情するように母にも伝染した。ここがこの親子のしがらみにもなっていた。

 ちょっとはにかんだ二十年前の恋に昔の母の面影をかいま見せた。それはどんな恋だったのだろう。ただあんたのお父ちゃんは生真面目な人やったとしか言わなかった。それしか言わない母親は何なのかと考えた。もしも盲目の恋に落ちれば正常な人間と異常な人間をどこで見極めるのか、心の中に踏み込めなければ見誤る事はないのか、心を割って話せる相手だったのか……。

 今まで語ってくれなかった母の肖像を求めて初恋の地である丹後行きを彼は決めた。このふとした亡き父の郷里からの手紙は語らなかった母の昔の面影を知る切っ掛けになるかも知れない。母が沈黙を守る恋を考えると急に胸に込み上げてきた。この時めきはもう抑えきれない衝動になっていた。おそらく亡き父の郷里からの手紙が来なければこれほどに母が青春の一コマを奏でた昔の恋に無関心で要られた。


 翌朝、英一はしがらみを断ち切れないままに丹後に行く列車に乗った。社会に揉まれてひと月でやってきた連休だけに学生時代の名残をどう味わうかそれが楽しみだった。待望の連休がおかしな男に導かれた原因は母のあやふやな説明にあった。のらりくらりと躱されてしまった。そのあげくにあの男に訊くしか埒が明かないと今は飛び乗った列車に揺られていた。

 遺産相続の代襲人であると告げると母は「あなたはもう波多野の家の人でなく加納の家の人になった」と念を押された。が他家の養子になっても亡くなった父の実子であることには変わりはない。だから父に代わって相続権が発生したと何度かの説明で解らんなりにも矛を収めてくれた。

 曖昧に話す母を見ていると母は何を隠しているのか、何に怯えているのか、何を気にしているのかそれらが三つ巴になって英一の頭をかき回し始めるともう何も聞きたくなかった。昨日会った人はそれを一つにまとめて根気よく説明してくれたからこの汽車に乗った。

 この話を急に訊いて母は戸惑ったのだろう。今まで母とは学業とそれに関する友人関係以外は母と話題を交わさなかったと反省させられた。親は何処まで子供に介入する義務があるのかこのときふと考えた。マザコンは別にしてある時期が来れば親は子供から少なくとも精神的に自立して行く。大学で習った児童心理学は小学生までだった。それ以上は自我に目覚めて自立して行く者として一般扱いであとは学ぶのでなく実践で身に付けて行くらしい。これはバイトで学業を成り立たせるのに精一杯で父母の人生を一度も考えず、聞きもしないし尋ねもしないから無理もなかった。

 この二十数年は一度も考えなかった母の人生を昨晩から巻き戻してみた。そこには狭いながらも弟たちと食卓を囲んで賑やかに食べている子供たちが居た。自分以外はみんな目の前にいるお父さんの子だから母は幸せに違いなかった。今までそんな色眼鏡で見なかったものが夕べは見えてきた。早い昼食を途中で買った駅弁で済ませるとそれを見せた張本人が駅に待っていた。


 彼は駅に着くと笑ってそんな夢を見せたことなどを否定するように加納英一を出迎えてくれた。改札を抜けるとどれほど逗留できるか聞いてきた。この連休中は予定を立ててないと告げると波多野は「じゃあ長くくつろげる宿がある」と今までの不安を打ち消すような笑いを浮かべて言った。それは亡くなったお父さんの家に近かった。気を利かして見つけておいてくれたらしい。彼は用意した車でその宿まで車を走らせた。駅前から少し走ると海に出た。車は海岸線に沿って走った。

「まだどれほど滞在するか決めてないのですが……」

「でも会社は連休になるんでしょう」

「だから学生時代に返って当てのない旅をしょうとそのついでに代襲も済ませようと出てきただけですから」

「ついでじゃ済まないですよ」

「母は書類にハンコを押して出せばいいだけだと言われたんですが」

「基本的にはそうですがそれによって大変なことが生じるんですよその辺の事情はお母さんからお聞きしていますね」

「それが……。母は何も語らずだから余計に気になって」

「それで来られた、のですか」

「波多野さんは母とはどう云う繋がりがあるんです」

「まああの辺りは地縁がありわたしも同じ苗字ですから遠い所では繋がっているんでしようねでも確かな系図がありませんから何とも言えませんねえ」

 系図もないか、一昔前なら重宝したものだが、今ではちり紙交換にもならないとぼやいていた。だから昔は年老いたあるじしか知らない。旧家にはそれらしいお飾りがタンスか押し入れの奥にひっそり眠っていたのかもしれない。老いた主が惚けるか亡くなればその所在も消えてしまい、縁続きが判らなくなりこの男の家もそうなんだ。

「加納さんがお母さんの連れ子、つまり今のお父さんの養子だと解ったのはいつ頃ですか」

「中学の頃には戸籍をこっそり見て判りました」

「親に訳は聞かなかったのですか」

「聞く必要もなかったから」

 何で人は生きているのかそっちの方が不思議だったから、過去や未来につまり生い立ちには関心がなかったからだ。戸籍を見てああそう云うことかの一言で片付き尾を引かなかった。彼は実にクールな考えの持ち主だと。じゃあ代襲の件も簡単に済ますかと難しい顔をされてしまった。この話はそこで終わりその意味はこの先までお預けになった。

「両親はそれで済むけれど弟たちも中学生になると戸籍を閲覧可能なのか知ったらしい、ある日そんな話を親にしているのを立ち聞きしてしまった。でも弟たちは今までと変わらず兄貴として頼られ親しみを持ってくれた。返って私の方が出来るだけ自立する義務感を抱いた結果中学からバイトを始めて学校に必要な金銭はすべてまかなった。親は親、子は子とバイトも好きにしなさいと親も干渉しなかった」

「それで自費で大学を出たのですか」

 中学からバイトで親のスネかじりじゃないなんて都会では珍しいと彼は感心した。 

 車は目的の家でなく宿に着いた。若い女の子が出て来て波多野さんと親しく話しているから仲がいいのかもしれない。でもこの人は奥さんも子供もいるようだから別の要件だろう。それが的中して途中から話が変わりどうも今から予約するようだった。

「泊まるのは後ろに居るひと?」

 と聞かれて波多野さんは加納を紹介した。

 ホウッと彼女は加納を見ていつまでと訊いた。二、三日だろうと勝手に答えていた。

「でも泊まるのは後ろに居る人、加納さんでしょう」

「どこまで話をまとめてきたのか解らないから二、三日ここで考えればいいでしょう。部屋のすぐ前は海だから魚は新鮮だからゆっくり落ち着くといいでしょう」

 波多野さんがそう思うのもにも昨日の今日だから彼は本当にどこまで考えてこられたのか疑心暗鬼に囚われたらしい。それで二、三日はここで考えた方が良いのでは、になったらしい。なぜ波多野さんがそこまで配慮した理由が後日に解った。とにかく今は突然すぎて頭の整理が付かず成り行き任せで来てしまった。ここでのんびり海を眺めて冷静に物事を推し進めよう。彼もそのつもりでここへ連れてきたのかもしれない。彼は明日その家へ案内すると告げると今日はそのまま引き上げてしまった。

 周囲は山に囲まれて開けた一方の海には入り江を塞ぐように島が有った。宿は海岸から少し離れた高台にあり湖のような湾を一望できた。さっき受付をした若い女がお茶とお菓子を持ってやって来た。どうやら彼女はさっきの波多野とはいとこ同士だと解った。この宿もその親戚筋だが苗字は波多野でなかったから母方の血筋なんだろうと思った。 

 片瀬成美かたせなるみと名乗ったその女はこの町をいずれは離れるつもりだと言った。片瀬はいとこから加納の身の上を聞かされたらしくいろいろと確認するように訊いてきた。

 最後にあなたのお父さんは噂では不思議な死に方をしたと話を結んだ。彼女は階下から夕食の準備を手伝うように催促されて部屋を出た。

 

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