源流

和之

第1話 序章

 英一が三歳の時に母は今の父と再婚して妹、沙織さおりが生まれていた。翌年には弟、謹治きんじが生まれた。これ以前から既に英一は今の父しか知らなかった。それほど三歳までの彼の記憶は幸か不幸か抜け落ちていた。

 ちょっとした郊外にある今の建て売り一戸建ての住宅地へ引っ越した頃は田んぼがまだ多くあった。その頃に異父妹弟二人が生まれていて父母の間には三人の子供がいた。新しいお父さんは彼を可愛がった。それは二人の実子が出来ても変わらなかった。それどころか彼を長男として扱ったから下の妹弟二人も兄を慕った。それは妹弟たちが戸籍を見て兄が次男に記載された事実を知っても兄であり長男として崇めた。分け隔てなく彼を長男として慕うように育てた父に感謝した。

 戸籍はどうであれ加納家の長男として育てられた英一は伸び伸びとした学生生活を送れた。それは会社面接でも社会人になっても変わらなかった。

 長男の加納英一かのうえいいちはこの春から社会人になりいつものように帰宅し部屋へ向かうと母に呼び止められた。

 今日着いた手紙を持ちながら母は「あんた丹後へ行ったことあるの」と聞かれ、全くないと答えると、今までに見たこともない神妙な顔つきで差し出した。裏の差出人の住所と名前に見覚えがなかった。これはなんなの ? と逆に聞き返した。あんたが解らんもんをあたしが知る訳ないやろうと穏やかに言い返された。そう云われれば返す言葉もない。ありもしない記憶を思わず探り出すと、いつか遠い記憶の片隅に母が丹後に居た記憶の糸を朧気おぼろげに引き寄せた。

 あれは中学生の時だった。母と妹、弟と英一の四人連れで出掛けた帰りに妹がひっつき虫を取ってきてみんなと投げ合ったときだ。丹後にはこれがよく生えていて遊んだと懐かしがっていた母は青春の一コマを想いだし頬を緩めた。今は曖昧に答える母を振り返ればこの丹後との関わりを聞くとすればあの日しかなかったなあと今になって思い出した。あの日は二十代でまだ見ぬ母の肖像を思い浮かべた。

 部屋に戻り封を切る前に暫く差出住所の丹後と差出名の波多野遼次はたのりょうじに思いを寄せても掻き消されぬ不安に包まれながらやっと封を切った。そこには遙かな過去を巡る出生に迫るものをしらされて彼は人生の眠りを妨げられた。

 翌朝は眠い目を擦りながら今日一日でゴールデンウィークを前にしたるんるん気分も吹っ飛び、重い脚を引きずるように家を出た。二十数年生きて初めて訪れた身に降りかかるものに身震いした。

 大学と違って社会人になり毎日同じ時間に出るが、今日ほど通勤の電車がなぜ地下を走ってるのか、なぜもっと明るい陽の差す地上でないのか疎まれた。更に今日ほどレールの先がいつも暗黒に閉ざされているのかつまらないと理屈を並べていた。彼が立つホームから零れた明かりがレールを少しばかり照らし出すがその先は漆喰の闇が続いていた。轟音ともに闇の向こうから突然切り裂くナイフのような前照灯を照らした電車はホームになだれ込んできた。どっとみんな列を詰めて開いたドアから吐き出された人混みと入れ替わり、排水路に流れ込む濁流に似て押し込められていった。地下を走る電車は再び前方の闇に勢いよく飛び出していった。

 いつもの見慣れた人々がただ闇に包まれた繭のように走る車両に声まで吸い取られて身を任されていた。目的地に着いて階段を上る果てにやっと天上の陽の光に包まれてほっと一息付けた。しかしそこも彼が求める安住の地ではなかった。これから続く社会人への人生を刻む過程に過ぎない。色々あっても命に限りがある中で自分の背負った宿命を挫折するまで歩き続ける。それだけに妹弟二人の前では頼れる長男面するが学生時代から頼りにする友人のない彼の神経はガラス細工のようだった。

 今まで疎遠だった人間をあれほど毎日大量に飲み込んでは吐き出す電車が闇の魔王に見えたのも無理もなかった。こんな地下鉄で通勤する彼の神経がどのように研ぎすまされるか、あるいはぶっ壊されるか、そのギリギリの境目まで今日は神経が高ぶった。この動揺は幼くして亡くなった父に関するものだけにこの遠い記憶はいずれ母に聞くしかなかった。


 加納さんですか。 地下街から駆け上がると突然声を掛けられた。振り向けば二十代中頃の見知らぬスーツ姿の男が立っていた。彼を引き留めた男は愛想笑いを浮かべて渡した名刺とともに波多野と名乗った。加納が通勤途上と知ってかすぐに横に並んで歩き出した。出社時刻を考えるとありがたいが失う自由を思うと煩わしい。それを察してか最近丹後からの手紙の有無を訊いた。加納が頷くとそれに付いて時間を頂けませんかと問われた。

 加納はもらった名刺の公務員の肩書きを見て頷いた。波多野は近くの喫茶店に目がとまると退社時間を伺った。加納が時間を告げると波多野は目の前の店を指定して「けして無理強いは致しませんがただ手紙の内容を中立な立場でご説明さして頂けませんか」と濁りのない瞳で誘った。わざわざここまで手紙の内容を説明に来るとはなんだろうと考えた。

 波多野は彼が躊躇ったと思うと「じゃあ日を改めてお目にかかれませんか」と引いた。

 彼の熱意に手紙の中身の重さを感じて了解し夕方に会う約束をして別れた。

 百歩以上歩いた曲がり角で一度振り返ったら男はまだ立っていた。慌てて会釈すると彼もそれに応えるとばつの悪そうに角を曲がった。 

 会社でそのままタイムカードを打つと、いつもなら切り替えられた頭が今日はそのまま尾を引いた。しかし幸いなのは入社ひと月の彼にはまだ大事な仕事が任されていなかった。だから夕方の退社時までそれ程の失敗もなかった。みんな明日からの連休を前にして仕事の持ち越しを避けて柔軟にこなしたのも幸いした。休みの予定を立てた連中は心が飛んで忙殺されていた。三々五々みんな早々と帰宅し始め、加納もその流れに乗って会社を出た。

 歩く道すがら最近届いた妙な見知らぬ手紙を再見した。差出人は波多野遼次と書かれ丹後半島からだ。そこで彼は今朝の男の名刺と見比べた。

「やはり同姓同名、同じ名前だ」

 何だこれは、わざわざ手紙の本人が来るとは何事なんだと思案して約束の喫茶店の戸を開けた。今朝の男は彼を見ると、さも我が家のように立って向かい入れて、男の前のテーブル席に彼を着かせた。そこで彼は貴方の代襲について相続人から一切を委任されたと告げた。と云うことはこの男は手紙のあるじからかなり信頼された人なんだ。

「波多野さんは母の旧姓と住んでた丹後が同じなんですが……。関係あるんですか?」

 会社を出てから泉のごとく湧き上がる疑問に圧殺されて不意に出てしまった。波多野は親しみを込めて笑った。

「お母さんに訊かれたのですか、それなら話が早いですね」

「それが早くないんです」

 母は手紙からただひと言旧姓と同じ名前だと告げた。

 ハア? と今度は不思議な顔をして波多野は彼を見据えた。

「何を聞かれたのですか?」

「手紙の差出人の名前はあたしの前の嫁ぎ先と同じ名字ですからお前をおかしなものに巻き込みたくないからお前は関わったらいけないと言われました」

「手紙を見せたのですね」

「ええ」

「遺産相続ですから再婚されたお母さんはもう配偶者ではありませんからでも貴方はお母さんの再婚先で養子縁組されても亡くなられたお父さんの実子は変わりませんからお母さんには無関係でも貴方には相続権があるんです。まず貴方の祖父、おじいさんが亡くなられたのですから遺産はその亡くなられた息子さんのお子さんつまりあなたが代襲出来るのです」

「他に誰がいるんです」

「祖母つまり貴方のおばあさんはもう亡くなられてます。そのお子さんが二人いましたその内のお一人が亡くなられたあなたのお父さんですもう一人は地元でご長男がおられます」

「伯父さんがいるんですか」

「そうですでもご長男は遺産を、あのう遺産と言っても自宅と山林と少しの現金ですが、すべては昔に亡くなった弟さんの遺児であるあなたの存在を無視して物事は進められないのです。亡くなられたおじいさんの身辺を整理しないとそれを相続権がある貴方と相談したい。ご心配なく貴方は伯父さんと対等な立場にある人ですから、ですから手紙の返事を出す前に私の意見を聴いて欲しいのですが……」

 その前にこの男の正体を聞かねばまずその名前からしてどう云う関係なのか話の続きどころではなかった。

 彼の顔からその疑問を察した波多野は分家でありこの相続には何も関与も出来ないとその立場を明らかにした。その上で彼のこの訪問は何を意味しているのか。最初は興味本位で聞いていたが途中からそもそも丹後の村役場の公務員がなんで俺のところへやって来たんだと疑念を持ちだした。そこで波多野も相続権から説明をガラッと変えてきた。

「ここの連中はどうかしている。暖かくなり花が一斉に咲き誇る季節なのにスマホばかり見て人を見ない、さっきも綺麗な夕陽だったのにそれを誰が知ってると云うんだろうね」

 波多野は丹後は緑も多いし第一にしっかり前を見て歩かないと出っ張った枝に頭をぶっける。ここはその心配がないのかみんな白い杖こそ持たないのにほとんど前を見ないで手元の画面でまるで地図上を歩いているみたいだがそうじゃない彼等はメールやゲームを楽しんでいるだけ何ですよ」

 それに意見を挟まない。

「丹後ではどうなんですか」

「歩道と車道の区別のない道だから端っこを歩くがそこには数メートルおきに電柱があるからぶつかってしまうよだからここの連中を見ているとヒヤヒヤさせられる」

「なるほど電柱はよけてくれませんか」

「なんとこの街中には二宮尊徳が増えてしまって田舎と都会が逆転したようだ」

 背中に薪は背負ってないが現代の勤勉でない金次郎はスマホを持っていると波多野は笑っていた。

「こことそれほどに違う母の実家は丹後のどの辺りになるんです」

「参ったなあ、あなたのお母さんは京都の西陣の人ですよ何も聴いてないんですか」

 此の言葉はそのまま加納の胸に突き刺さって参ってしまった。母とは上手くいっていて問題はないが、お互いに不干渉なところがあると慌てて見苦しい言い訳してしまった。彼は笑って受け止めてくれたので救われた。母自身はその出生から生い立ちに掛けての疑問が生じなかったほど完璧に子供の形成に全力を注いでくれた。母は熱心に子供たちを愛してくれた。だから母の過去は何も訊こうとは思わなかった。彼自身も知ろうともしないからそのまま今日を迎えて波多野の疑問に大いに冷や汗をかかされた。

「加納さん、あなたはお母さんが苦手じゃあないんですか」

 この聞き捨てならない言葉に微妙に反応した。それで波多野は慌てた。

「いやその嫌いという意味でなくあくまでもある面では本当に関心がなかった。心にいや仕草でもいいけど俺もあるんだけど母親は好きだけど、ここんところだけは気に入らないってまあ人間万能じゃあないから要するに欠点は誰にでもあるでしょう。お母さんにはそのようなところを見受けなかったのですか」

 加納の目がちょっとほころぶと彼は穏やかな口調に戻って続けた。

「まあどの家だって色んな小さいいざこざはありますよ、それでも幸福なら何も言うことはないでしょう。でも不幸には様々な不幸があるとトルストイがアンナ・カレーニナの冒頭で言ってました」

 何でここでトルストイなんだろう飛躍しすぎてる。

「私が貴方に突然に何の前触れもなくやって来たのは その手紙にハンコだけを押して送り返してほしくないから来たのです」

 要するに亡父の意思と生まれ育ったところを息子であるあなたの目に焼き付けて欲しかったから必ず来てほしいと携帯の番号を伝えてその店を後にした。

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