第43話 名前について
森に入るとすぐに親のヴィトニルと遭遇できた。どうやらリヒト宅周辺を拠点として周囲を警戒してくれていたらしい。
ずずず、と霧けぶる木々の向こうに巨大な影を見かけたときはぎょっとしたが、正体を知っている今なら大丈夫だ。
「ヴィトニル殿、少しお伺いしたいことが」
《良い朝だな、リヒトよ。昨日ぶりだが、何か問題か?》
「実は――」
子ヴィトニルの呼び名があるのかを問うと、少しの時間思考した親ヴィトニルである目の前の聖獣が告げた。
《我らに個々を示す呼び名は無い、自身か、血を分けた子どもか、それ以外か、という認識しかないからな》
「そうですか……」
名前という概念が無いのならば、ヴィトニルとあの小さな毛玉のような子も呼ぶしかないか、と考えていたところに、上から更に声が響いた。
《……リヒトよ、人間界で呼び名がある方が良いならばあの子に名前を付けても良いぞ》
「いいのですか? ……では、レグルスと名付けても?」
ヴィトニルはその体躯の巨大さからも、古代に滅んだ竜にも勝る強さを持つと聞く。
今はまだ小さなあの子どもの魔獣が、やがて成体となったときに聳え立つような大きな肉体を持つならば、ふさわしい名前を一つだけ思い浮かべていた。
《……レグルス。なるほど、「王子」か。ヴィトニル最後の生き残りに王子の名を冠するとは。気に入った。良いぞ、あの子を「レグルス」と呼んでやってくれ》
「ありがとうございます、本人も気に入ってくれると良いのですが」
《大丈夫だろう。竜人の子といい、リヒトといい、そなたらの傍は心地が良いらしい。あの子の魔力の波動がそう伝えてくる》
居心地がいいと思ってもらえているのなら、有難いことだ。王都の森に身を寄せるまでは、不自由なく過ごしてもらいたい。
親ヴィトニルからその後の森の様子を聞かされる。
今のところ目立った侵入者は居ないが、樹海の外周付近に数名の人族の気配があったらしい。
単純に冒険者なのか、はたまた件の魔石乱獲を企てる一味なのかは定かでは無いが、リヒト宅周辺まで入り込むようなら威嚇して追い払っておく、と教えてくれた。
ヴィトニルの眷属はどうやらモノケロースも含まれていたらしく、顔馴染みの数匹がリヒトに擦り寄ってきてくれた。
魔獣同士の伝達方法でもあるのか、耳馴染みのない音が彼らの中で交わされ、リヒトに挨拶をしてくれたモノケロースたちは一斉に散り散りに森の中へと消えていった。
《この森で我に従わない魔獣は居ない。乱獲者たち以外のことは気にせず過ごされよ》
「なんとも心強いかぎりです、ありがとうございます」
ヴィトニルと別れを告げ、リヒトはより一層静謐さを増した森の中を歩き始めた。
「ただいま」
「おかえり、リヒトさん! 大丈夫だった?」
「ヴィトニル殿から状況報告も聞いてきたけど今のところ実害があった訳では無いから、とりあえずは大丈夫みたい。引き続き、周囲を警戒してくれているよ」
シキは薬草保管室の棚のうち、殆どの引き出しの整理を終えてくれていたようだ。退屈だったのか、シキの足元で子ヴィトニルが丸まって眠っていた。
「シキ、この子の名前なんだけど『レグルス』と名付ける許可を貰ったよ」
「レグルス?」
ぴくり、と足元で寝ていた魔獣が目を覚ましたようだ。
うとうととした眼差しは、半分夢の中のようだった。
「『王子』の意味を持つ言葉だよ。この先にこの子が大きくなるなら、ふさわしい名前を付けたいなって」
「レグルス……、レグルス……。うん、いい響き。王子様なのも、格好いい」
「きゃうん?」
わかっているのかいないのか、当の本人は無邪気な顔でリヒトとシキを見上げて小首を傾げている。
「今日から君はレグルスだよ、改めて宜しくね」
リヒトはきらきらと星空のように輝くレグルスの目を見つめ、そっとそのもふもふとした毛を撫でて堪能する。
気持ちよさそうに目を細め、くぅ〜んと嬉しそうに鳴いたので、おそらく名前を気に入ってくれたのだろうと判断した。
名前を伝えたあと、リヒトは樹海で採取してきた薬草を日干しにするもの、煎じるもの、煮出すものに分けてそれぞれ作業を開始した。
シキには引き続き薬草棚の整理をお願いし、お互いにさくさくと進めていく。
ふと、シキが眉根を寄せて顔を上げた。
「……リヒトさん、ラガンツァとハルベナって葉の形がとても似てるんだけど、どう見分けたらいいの?」
「ああ、これはややこしいんだけど、それぞれ咲く花の色が違うんだ。ラガンツァは黄色い花弁、ハルベナは青い花弁。葉単体で見分けるなら磨り潰した時に染み出る汁の色で見分ける」
「乾燥した葉っぱの場合は?」
「葉に湯を掛けて布で包んで揉むと分かる。あとは慣れてきたら陽に透かせて見分けたりしたなぁ、これはあまりおすすめ出来ないけど」
「……ちなみにどちらか毒性があるとか?」
「両方ともにね。ただ、ハルベナは摂取量を守れば麻酔薬になる。病院には必要な薬草だよ」
シキには伝えたことを書き付けられるように紙の束とペンを渡している。
たどたどしい文字ではあるが、今リヒトがさらりと伝えたことを必死に書き連ねていた。
「ラガンツァの効能は?」
「ラガンツァは煎じた液体で患部を洗うんだ。消炎作用がある。主に擦り傷や切り傷に有効」
シキが目をしばたきながら文字を書き続けていた。そして顔を上げると質問をする。
「ラガンツァは経口摂取しない方がいい?」
「傷口への殺菌や消炎目的の使用だから体内への摂取は毒になるね」
一通り伝えたことをまとめ終えたのか、また再びシキが棚の整理を再開した。今度は花弁系が入っている辺りのようだ。
乾燥剤を入れ直し、包まれている紙も新しいものと取り替える。傷んだ部分は破棄をする。
「リヒトさん、辞書みたいにするする知識が出てくるね」
「未知の草花があるとすぐに調べていたからね。樹海の中にも探索しきれていない場所があるから、いつかシキと一緒に行けたらいいな」
まだ見ぬ草花があるならお目にかかりたい。樹海は日毎に姿を変える地帯もある。もしかしたら今日この時も、新たな植物が芽吹いているかもしれない。
「芽吹きの季節はねぇ、あまり森に入るなってレイセルに叱られたよ」
「なんだかわかる気がする。リヒトさん帰って来なさそう」
「正解。あ、でももう暫くしたらカミユレの花が咲くから、ユレの実は採りに行かないと」
「あ、密煮が美味しいやつだね!? 楽しみだなあ」
こうして採取の楽しみを誰かと分かち合うのは、いつのこと以来だっただろうかとふと考えた。
それこそ父が生きている頃以来かもしれない。久しぶりに期待や高揚感のあるこの気持ちを誰かと分け合えるのが、こんなに幸福なことだったのかと、リヒトはしみじみと感じていた。
乾燥以外の工程を終えたので、昼ご飯の後、お茶の時間にすることにした。
「実は前採取してたセネの大木の花弁が良い具合に乾燥してたから、さっそく飲んでみようかと」
「あ、あの黄色いお花のだね!」
エトルーク村の前に立ち寄った冒険者の目印になる非常に大きな木。有難いことに花をつける時期に立ち寄れたので、花弁を採取していた。
通気性の高い麻袋に入れていたので、旅をしながら乾燥させることができた。
ガラス製のポットにたっぷりとセネの花弁を入れて、湯を注いでいく。
セネの花に混ぜて、マトリカリアの花を入れても香り高い茶になるが、今日はセネの花だけにした。
「ふわぁ、良い香り」
「だよね、私もこの香りがとても好きなんだ。ここに少し蜜を入れて……」
充分に蒸らしたら、カップに注ぎ入れる。
花弁の淡い黄色そのままのお茶が出来上がる。そこに蜜を垂らしてくるりと混ぜたら完成だ。
「どうぞ、召し上がれ」
「いただきます」
ふわりと立ち上る湯気に花の淡い香りがただよう。眠る前に飲むと、いい眠りに落ちることが出来るお茶でもある。
「領都で買ったマトリカリアの花もこれと合わせて飲むと美味しいんだよ」
「あっ、種植え、教えて欲しいな」
「時期が来たら一緒に植えようね」
レグルスは窓辺の日当たりのいい場所で丸くなって眠っている。
とても素晴らしい午後のひとときとなった。
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