第42話 樹海の家、再び

 久しぶりに我が家のエントランスに辿り着き、リヒトはようやく張っていた緊張を解くことができたような気がした。


 だが力を抜くのはまだ早い。


「シキ、よければヴィトニルの子としばらく前庭で遊んでいてくれるかい?」

「遊んでいていいの?」

「ああ、少し部屋の中の空気の入れ替えとか、掃除を済ませてしまおうと思うから」

「えっ!? 僕も手伝うよ!」

「ヴィトニルの子を放置しちゃうのは可哀想だからね、せめてこの子の寝床とかを整えてあげようかと。だからその間、シキには様子を見ていて欲しくて」


 親切に申し出てくれたシキの黒髪の頭を撫でて、そのシキの傍らに尻尾をふりふりとして上機嫌の黒い毛玉――もとい子ヴィトニルに目配せする。


 一節ほど家を留守にしていたこともあり、家の中の空気は少し澱んでいることだろう。

 日持ちしない食糧は片付けておいたとはいえ、腐敗したものはないか、水はきちんと流れるか確認しておきたい。


「うん、わかった。手伝いが必要だったら呼んでね?」

「ありがとう、シキ。少しの間、頼むよ」


 了承してくれたシキに微笑んで、リヒトは我が家へ一足先に足を踏み入れた。




 しばらく家を開けていたが心配するほど家は荒れておらず、窓を開けて空気を入れ替え、棚を拭きあげ、床を軽く掃く程度で大丈夫そうだった。


 旅に出る前にベッドシーツなどは洗濯していたので、一度外で日干しする程度で大丈夫そうだ。

 幸いまだ日差しが降り注ぐ時間だったので、外の物干しにシーツを掛けた。


 保冷庫の中身はほとんど空にしていたので、保存の効く乾麺と前庭の庭で食べられそうなものを採取すれば暫くは食事もなんとかなりそうだった。


 エトルーク村で捕獲したスースの肉は塩漬けや香草に漬けておいたものがあるので、それらがあることも助かった。


 マギユラに届けるための配達依頼の品目を用紙に書き付けていく。


 カエルラウェスを呼び出し、帰還を伝える内容とマギユラ宛の配達依頼書を脚に結い付けると領都へと飛んでもらう。


 もう二羽ほど呼び出したカエルラウェスに、ヒューマとレイセル宛の手紙を届けてもらうことにした。


 ヒューマには聖獣ヴィトニルから子どもの保護を頼まれたこと、王都の神殿にヴィトニル自身が身を寄せたいと思っていることなどを伝達してもらえないかと書き記す。おそらく細かいことなどは神殿側が判断して対応してくれることだろう、と一任することにした。


 レイセルには家の魔道具たちが滞りなく動いていること、またそう遠くない時期に領都には顔を出すのでまた会って欲しいことなどを書き記した。




 手紙も出し終わり、部屋の掃除や換気も一通りできたので、前庭にいるであろうシキと子ヴィトニルを呼びに行くことにした。


 時刻は既に夕刻になっていて、ついでに物干しに掛けたシーツも回収する。


「あっ! リヒトさん、もうお家の中は大丈夫?」

「お待たせ、シキ。夕飯を作り始めようかと……って、何をしているんだい?」


 シーツを抱えて前庭の一角を覗き込めば、何やら子ヴィトニルが胴体を地面にぺしゃりと着けていた。


「《伏せ》を覚えさせてみたんだ。あとは……、《お手》」


 キラキラとした眼差しでシキを見上げ、シキの差し出した手に、ぽすり、と片方の前足を乗せた。

 子ヴィトニルは、褒めて、褒めて、と言わんばかりに胸を張って、しっぽをふりふりと振っている。


「この短時間で覚えるなんて、とても賢い子だし、シキも魔獣の扱いが上手だね!」


 少しはにかんたような表情でシキは頬をかき、わしわしと子ヴィトニルの頭を撫でてあげていた。


「この子、とても覚えがいいみたい。あと、人語も少しは判別できるみたい」

「なるほど、それで。この子が話せるようになるのが楽しみだね、ってまあ話せなくてもこの様子ならある程度わかる気がするけれど」


 そう言うリヒトの目の前で、シキの撫でる手が嬉しくて仕方ないようで、もっと撫でろと言わんばかりにお腹を見せて寝転ぶ子ヴィトニルが嬉しそうにキャウキャウ鳴いている。


「『もっと撫でて!』とか『褒めて!』ってあたりかな」

「僕もそう思う」


 子ヴィトニルの様子に二人でひとしきり笑ったあと、夕刻に差し掛かっていたこともあり家の中へと入ることにした




 子ヴィトニルの寝床はシキの部屋の暖炉前にいくつかクッションを置いておいた。仮の寝床なので、きちんと寝心地のいい寝床を用意してあげたい。


 夕食は豆を煮込んで裏ごししたスープと香草に漬けたスースのステーキ、庭に自生していた葉物にオイルと塩で味をつけたサラダだ。


 パンを作りたかったが、生憎粉類も全て使い切ってしまっていた。


 子ヴィトニルには茹でて細かく解したスースの肉と、味をつけていない豆のスープを差し出してみたら大喜びの様子であっという間に完食した。


 二人と一匹の賑やかな夕食を済ませると、暖炉の前でお茶を飲むことにした。


「領都に手紙を飛ばしておいたから、ひとまずヴィトニルのことについては返答を待たないといけない。ヒューマ殿、レイセル、マギユラには帰宅を報せておいたからね」

「なんだかこの間まで領都に居たはずなのに、とても昔のことみたいに思えちゃう……」


 シキは膝の上で眠りこけている子ヴィトニルを撫でながら、むーん、と難しい顔をしていた。

 ふふ、と笑ってしまうが、リヒトも領都滞在からこの樹海の家に帰ってくる間までのことを思い返して、色々なことがあったなと感慨深い気持ちになっていた。


「明日からまた私は溜まりに溜まった調剤の依頼をこなしていかないといけないんだ、シキも少しだけ手伝ってくれるかい?」

「うん! もちろん!」


 薬草の入手が難しい落葉の季節は作り置きの薬で賄うが、芽吹きの季節からは本腰を入れてギルドに納品する薬を作る。


 毎年のことではあるが、昨年末からはシキと暮らしている。

 自分一人であればかろうじで生きていける程度の収入でよかったが、これからはそうも言っていられない。


 リヒトは薬草の在庫と作成可能な薬の種類を頭の中で計算し、不足分をまずは採取しに行くことに決めた。


「長旅で疲れただろうし、湯浴みを済ませたら今日は早めに寝よう。明日は少し早起きするからね」

「わかった、僕ももう眠たいや」


 とろんとしたシキを湯殿に送り込み、リヒトはベッドにシーツを掛け直して寝る支度を整え始めた。


 子ヴィトニルは簡単に用意したクッションの寝床を気に入ったらしく、楽な姿勢で寝転んでいる。


 無防備にあどけない寝顔になんだかシキの面影が重なり、リヒトは子どもの魔獣を撫でながらくすりと笑った。


「……この子に名前はあるのかな」


 明日、もしも採取の途中であの親のヴィトニルに出会えたら聞いてみようと考えた。






 翌朝。

 夜明けよりも早くに目覚めたリヒトは朝の身支度を整え、庭の雑草取りを終えると、手早く朝食の支度に取り掛かった。


 昨夜の豆のスープ、スースを細かく切ってオイルでカリっとフライパンで焼いたものを葉物野菜の上に添えた。庭で採れた柑橘系の果実を絞ったものと塩を混ぜてドレッシングにする。


 お茶用の湯を沸かしているところでシキが子ヴィトニルを連れて起きてきた。


「寝坊しちゃってごめんなさい、おはよう、リヒトさん」

「おはよう、シキ。大丈夫だよ、まだ夜は明けていないから、いつもよりずいぶん早いくらいだ」


 シキがテーブルに着き、子ヴィトニルは足元で行儀よく座っている。


 リヒトはシキの前に料理を置いたあと、子ヴィトニルの前にも昨夜と同じメニューであるがご飯を入れた器を置く。


 子ヴィトニルはすぐには食べずに、シキの方を様子を伺う。

 シキがどうぞ、と手を差し出したあとに嬉しそうに食べ始めた。


「なんだか本当に手懐けているね……」

「この子がとても頭が良いからだよ」


 リヒトが感動していると、シキはなんでもないように返事をしたが、実際のところは魔獣と意思疎通がスムーズに取れることが嬉しいようだ。


 朝食を食べ終え、片付けを済ませると、リヒトはシキに薬草の保管庫として使っている部屋へと案内した。


「シキにお願いしたいのが、薬包紙を取り替えて、乾燥剤を入れ替えておいて欲しいんだ」

「前に教えてくれたやつだね、任せて! ……リヒトさんは何するの?」

「私は調剤に足りない薬草を採取するために、少しだけ結界を出て森に入ってくる。今の森の中にヴィトニルの子を連れてはいけないから、シキと二人で留守番を頼みたいんだ」


 今、親ヴィトニルが眷属を連れて樹海の中を警戒中とはいえ、魔石乱獲を企てる一味と遭遇する危険がある。


 リヒトももちろん危険ではあるが、親ヴィトニルに聞きたいこともあったので、森には入りたい。


「……無理は絶対にだめだからね?」

「肝に銘じるよ。家の近くの採取場所だから一刻程度で戻ってくるね」


 シキにじろりと睨まれてしまうが、なんとか了承をとりつけて、リヒトは森へ入る支度を整えた。


 まだ芽吹きの季節とはいえ朝方は冷え込む。厚手の上着を着込み、背負い袋に採取用の麻の袋とモノケロースに会えたときのためのユレの密煮も入れておいた。


「カミユレの花ももうそろそろ咲く時期だから、安全が分かったらシキと採取に行きたいな」


 これからの時期、樹海の中はあらゆる草木や花々、果実の育つ時期となる。


 魔力を豊富に含んだ雪解け水が地層に染み渡っており、充分に魔力を蓄えた草花が一斉に芽吹くのだ。


 リヒトは結界を抜けて足取りも軽く、森へと歩いて行った。

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