第3話

「ほら、行くわよ。」

彼女が呼んだ。

「うん。」

私も、リュックを背負って、立ち上がった。

「こちらです。」

マスターが、ドアを開けて、廊下に出た。

「このドアです。」

ふたつめのドアを、マスターが開けた。

薄暗い部屋が、ぼんやり見えた。

「ここから雪の星に行けるんだね?」

首を伸ばして、部屋の中を覗き込みながら、私は訊いた。

「この部屋は、雪の星のとある街のアパートの一室です。」

私は、慌てて、首を引っ込めた。

「なんともない?」

彼女が、訊いた。


首を撫でてみた。

大丈夫そうだ…


「ここでは、雪の星が存在する宇宙と、地球が存在する宇宙の時空が、隙間無くつながっています。

生物も、物質も、情報も、全く問題無く、行き来出来ます。」

「隙間なんてなんにも見えないわ!!」


マスターは、部屋に入った。

「さあ、どうぞ。」

私は、唾を飲み込んだ。

さっき、首だけ突っ込んで、大丈夫だったから、大丈夫だろう…


深呼吸したら、飛び込もう。

息を吸って…


スタスタと、彼女が部屋に入った。

「なんともないわよ。

ホントに別の宇宙なの?」


吐き出した私の息が、まるでため息のように聴こえたのは、たぶん、気のせいだろう。


「もうちょっと、なんか無いのかしら?

めまいがするとか、恍惚となって、失神するとか、神秘的な啓示が降りてくるとか?」

「全く継ぎ目が無いのです。

だからこそ、我々も、あなた方も、自由に行き来出来るのです。

本来は、別の宇宙の住人なのに…」

「なんか、拍子抜けしちゃう。」

彼女は、膨れっ面になった。

「それに、全然寒く無いわよ。

どうして?」

「ここは、地下の街なので、エアコンが効いているのです。」

「もう!!

せっかく、高い防寒着重ね着して来たのに…」

「地上に出れば、寒いですから。

それまで、防寒着は、脱いでいても大丈夫です。」

彼女は、早速、防寒着を脱ぎ始めた。

「何してるの?

早く来なさいよ。」

私も、部屋に入った。




気が付くと、見慣れないところにいた。

見えるのは、ぼんやりした、灰色の光だけ。

何も聴こえない。

何も感じない。

自分の体さえ、感じない。

自分?


自分って、何だ?


何も、思い出せない。


あるのは、灰色の光のみ。


何も起きない。


ただ、時が過ぎて行く。


1年?


10年?


100年?


1000年?


10000年?


それとも、1秒?


全くわからない。


もっと、変化のある世界が、有ったような気はする。


いろんな事が起きる、忙しくて、騒がしい世界が…


でも、思い出せない。


どんな世界だったか…


どんな自分だったか…





一瞬なのか、永劫なのか、わからない、時が流れた。



突然、何かが見えた。


縦長な、左右対称の姿。


いちばん上には、細い糸のようなものがいっぱい生えている。


上から2本、下からも2本、棒状の部分が生えている。


顔(思い出した!!)には、ふたつの目とひとつの鼻とひとつの口とふたつの耳が付いている。


彼女だった。


私は、彼女を思い出した。


私は、彼女のために、生きているのだ。


私は、彼女を、助けなければならない。



私は、存在しない自分の手を、精一杯伸ばして、彼女に触れようとした。


手応えが無い。


彼女に向かって、突き進んだ。

蹴るべき大地も無いのに…

頼るべき足も無いのに…


彼女のそばに行こうと、もがいた。

もがく体が無いのに…


ただ、ひたすら、彼女に、近づこうとした。


彼女のために存在するもの。

それが、私だった。


ありもしない体で、空虚を掴みながら、

ありもしない口で、声にならない声で、彼女の名前を叫びながら、

私は、彼女に近づこうとした。


そして、いつしか、彼女に近づいたような気がした。


私は、彼女に触れたいと思った。


だが、私には、体が無かった。


私は、彼女に触れる事は、出来なかった。


私は、彼女に寄り添った。


そうする事しか、出来なかった。


私は、彼女の名前を何度も叫んだ。


だが、声にはならなかった。


彼女の耳にも聴こえなかったようだ。


私の叫びに、気付いた様子は無かったから…


彼女の目に、私の姿は映らなかった。


私には、姿が無かったから。


私は、ずっと、彼女に寄り添い続けた。


彼女が、母になり、祖母になり、曾祖母になり、そして、私と同じ、姿無き姿になったあとも、ずっと、寄り添い続けた。


私は、いつまでも、彼女に寄り添い続けるつもりだ。





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