二章 後編
「それ、私の記憶!」
そう叫ぶと、彼女は目を輝かせて一気にまくしたてた。
「私、過去に記憶喪失になったことがあるんです。まあ、そんなに症状は重くなくて、一週間ほどで記憶は戻ったんですけど。でも、一つだけ記憶がなくなっているのに気づいたんです。それが貴方の夢とそっくりなんです!
ほら、記憶って夢に出るってじゃないですか! だからそれ、多分私の記憶なんですよ!‼︎」
俺はただただ瞬きを繰り返した。彼女が記憶喪失になった際に何らかの現象が起こり、記憶の片割れが俺の頭の中に入ったということか? そんな現象は起こりうることなのか? というか、この話には決定的な矛盾が生じている。
「お前は記憶喪失になったと言ったな。だとしたら、記憶が一つ失くなってるなんて、どうして分かるんだ?」
俺の言葉を聞いて、彼女は首をゆっくりと傾げた。ちょいと分かりづらかったか。
頭を掻きながら、俺の乏しい語彙を組み合わせる。
「えー、あー、あ、そうだ。一つ例え話をしてみよう。
例えば……お前が友人に10冊セットの本を貸したとしよう」
「はぁ」
「そしてお前は貸した直後に何冊貸したか、を忘れている」
「あー、はい」
「友人はその本を借りたにもかかわらず、一冊失くしてしまった」
「ひどい友人ですね」
「その話は今どうでもいい。そして友人はどうしても失くした一冊を見つけ出せなかったから、失くした一冊のことを伏せて、お前に返した。でも、お前は何冊貸したか忘れているから、一冊失くなっていることに気づかない、ということだ」
少し考えるように口元に人差し指をあてて、彼女は唸った。それからしゃべりはじめる。
「なるほど。貸した本が、私が記憶喪失になる前の記憶で、本を貸している間が記憶喪失になっている間で、失くなった一冊の本が、私が探している記憶という訳ですか」
「そういうこと」
「でも、そういうことなら説明できます」
お、そう来たか。とくと聞かせてもらおうじゃないか。
「私も例え話で説明しますけど、例えば利隼さんが日記を書いていたとしましょう。
こないだ大聖堂で倒れていたときのことを日記に書いて、写真を貼ったとします」
あまり蒸し返されたくない話だな。
「でも、今私の脳はその写真がない状態なんです」
「すまん、ちょっと分かりにくい」
彼女はまた口元に人差し指を当てて考える。
「大事な説明が抜けてましたね。
記憶って、古い書物によると2種類あるそうなんです。一つが形式的記憶、もう一つが体験的記憶です」
指を一本ずつたてながら、彼女はしゃべり続ける。
「形式的記憶が、何があったのかという記憶で、日記の本文に当たります。『大聖堂で倒れた』とか」
まだその話を引っ張るのか。
「もう一つの体験的記憶というのは、自分の目で見て、耳で聴いて、肌で感じて……とかいう感じです。味とか音とか匂いとか。人に伝えられない主観的な記憶で、写真にあたります。
私はその体験的記憶を失っているんです。でも、形式的記憶は失くなっていないので、何があったのかは分かるんです」
なるほど。俺は形式的記憶を持っていないから、あの記憶がどのようなシーンを切り取ったのか、分からないのか。その反面、五感に関する記憶を俺が保有しているのもうなずける。
「という訳で、返してください」
彼女は笑顔で右手をさし出した。俺はうなずく。
「じゃあ、今返す……」
……お? ちょっと待て。
「どうやって返すんだ?」
「あ」
完全にそこまで考えてなかったな、こいつ。
彼女はストンと椅子に腰かけた。魂が抜けたみたいになってるぞ、大丈夫か?
しかし、彼女はまた机に手をつき、一息に立ち上がった。
「でもでもでもっ、これだけでも大きな進歩です! 今から図書館に行って、方法とかを調べて来ます。お茶、ありがとうございました。おいしかったです。では!」
深く一礼すると、玄関まで走っていく。
俺はぽかんと口を開けて、その姿を見送った。すると、扉の前で彼女はこちらをくるりと振り返った。
「また何か分かったら来ますね。あと、私のことはユキハと呼んでください。呼びすてでいいです。かわりに私も利隼って呼んでいいですか? いいですよね。あと、敬語もやめますね」
「お、おう」
「じゃあ、さよならっ!」
もはら充分な返事の暇さえ与えない勢いだ。
扉の前にもう姿はない。
机の上の2つのティーカップを見比べる。俺の方には冷め切った紅茶が半分以上残っているのにもかかわらず、ユキハの方はすでに空っぽだった。いつの間に飲みほしたのやら。
床に横たえられたリュートをよけて、扉をあける。
やはりユキハの姿はもうない。
そして、日は西の方に傾きかけている。
ユキハが来てから30分もたっていない。ということは……
「俺は昼を過ぎてから起きたのか」
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