第488話

 ANGEが大混乱に陥るより一時間前のこと――。

 研修マネージャーの月島聡子は恋人(のような何か)が住むマンションにて、朝からカクテルのレシピブックを熟読していた。

「そんなに難しくはないだろう」

 と、交際相手の霧崎タクトがぶっきらぼうに呟く。

「はい。要はビールとトマトジュースを混ぜるだけですから」

 霧崎タクトは大人気イケメンユニット『RED・EYE』のセンターを務めていた。そんな彼らが動画配信の一環で、ユニット名と同じビールを自作しよう、という流れに。

 それがビールをベースにしたカクテル、レッドアイ。

 その名前は『飲んだひとが二日酔いになって、目が真っ赤に』という小話に由来するらしい。奇しくも、それはRED・EYEの名の由来とも似通っていた。

 凝り性の聡子は、まずトマトジュースから自作するつもりで、新鮮なトマトを調達。今日は練習として朝のうちに作り、冷蔵庫で冷やし、夜に飲む。

「普通は先に冷やしておいてから、作るんじゃないか?」

「帰ってからだとヘトヘトで、手作りどころじゃなくなりそうですので」

「それもそうか」

 不意にタクトのケータイが鳴った。

 タクトは電話の相手に応答しつつ、聡子にも言葉を投げかける。

「とりあえず1:1で試してみるか。……あぁ、いや。こっちの話だ」

 そして二分後。彼氏がキッチンへ戻った時、どういうわけか聡子は顔じゅうに真っ赤な汁を垂れ流していた。トマトの香りがアクシデントを物語る。

「……なぜ、そうなる」

「トマトが空を飛んだんですよ……。本当です……」

 呆れながらもタクトは淡々と指示を出した。

「片付けはオレがやっておく。お前はシャワーでも浴びてこい」

「……ハイ」

 聡子は汁が垂れないように、奇妙なカニ歩きで風呂場のほうへスライドしていく。

 大変な誤解が生じたのは、その直後のことだった。

「聡子ならシャワーだ。急ぎの要件なら、すぐに掛けなおさせるが」

『つつっつ、月島さんに伝言をお願いします! 見損ないましたって!』

 タクトとて女子高生の想像力には恐れ入る。


                  ☆


 恥を捨て、女を捨て……イベントは無事に終わったわ。

 麗奈さんは深い悲しみを背負うことになってしまったけれど。無力な私は何もできず、粛々と着替えを済ませる。

 響希さんはプロデューサーと電話していた。

「このあとでケイウォルス学園のかたと? お、憶えてますよぉー」

 さては忘れてたのね、響希さん。今からケイウォルス学園の担当者と、来月の文化祭のライブについて、夕食がてら打ち合わせだってこと。

 まだ更衣室の隅っこで膝を抱えてる麗奈さんを、妹分の環さんが励ます。

「お互い忘れるってことで、話はついたじゃないですか。立ってくださいってば」

「うぅ……もう少しだけ、そっとしておいて……」

 ライブ直前の私もあんな感じなのかしら。

 このタイミングで指摘するのは、いささか酷かもしれない。

「まあ麗奈さんのショックもわかりますよ。あれだけ恥をかいたのに、今日のお仕事、ANGEの宣伝にはまったく貢献してないわけですし」

 麗奈さんは蒼白の表情で愕然とした。その傍らで響希さんは小首を傾げる。

「そ、それって……」

「え? どーいうことなの? 栞ちゃん」

 その続きは、すべてを悟ったらしい環さんが打ち明けた。

「今日はANGEの名前を一切出してませんし、CDを販売したわけでもなくて……それに、ポップスとは縁のない子どもたちが相手では……ごにょごにょ」

 ごにょごにょとお茶を濁しつつも、要点はしっかり押さえてるのが末恐ろしいわね。

「あ~~~っ!」

 麗奈さんは再び蹲り、その肩を律夏さんがぽんと叩いた。

「ドンマイ。プリズムブライト」

「響希、記念撮影のデータ~! 忘れないうちに、わたしにも」

「鬼ですか」

 結依さんは寄るところがあるらしくって、とっくに引きあげてる。今日の不協和音はダークローネの陰謀……は、ないか。

ちょうど四時の時報が鳴り響いた。遊園地はまだ開いてるものの、私たちも引きあげる頃合いね。律夏さんと響希さんが先に更衣室を出ていく。

「エンタメランドだと、これからナイトパレードなんだよね」

「クリスマスシーズンとか、すごいんでしょ? みんなで行きたいなあ」

 私と環さんも往生際の悪い麗奈さんを引きずりながら、外へ。

「ほら、行きますよ? プリズムブライトさん」

「いつもの凛々しい先輩に戻ってください」

「い~や~あ~っ!」

 スタッフのみなさんに挨拶をして、入場ゲートのあたりまで戻る。

「お腹空いたぁー。お食事会って、どんなのだろ?」

「期待しちゃうよね。何しろ超のつく大金持ちの、コートナーグループだし」

 その時――あるメロディーが耳に流れ込んできた。

「……!」

 それは嫌になるくらい聴き覚えのある、いつぞやの名曲。

 音楽に造詣の深い響希さんが、一発でタイトルを言い当てる。

「懐かしいね、これ。『ソラのスピカ』だよ」

 麗奈さんも復帰しつつ口を揃えた。

「あぁ、確か……神谷次郎の」

 その名前を聞いた途端、私の全身から熱のすべてが引いていく。私は鞄を落とし、震えてやまない我が身を必死に、痛切にかき抱いた。

 隣の環さんがぎょっとする。

「し、栞先輩? 真っ青ですよ、どうしたんですか?」

 響希さんや律夏さんも振り返るや、心配そうに駆け寄ってきた。

「具合が悪いの? 待ってて、すぐに雲雀さんを呼ぶから」

「どっか座ったほうがいいよ。麗奈、何か飲み物、残ってない?」

「お茶ならあるわ。えぇと……」

 けど、今の私には何も言えない。答えられない。

「ごめんなさい。今日は先に帰ります」

 私は鞄を拾うと、百メートル走のように駆け出した。

「栞ちゃんっ?」

 響希さんの制止を背中越しに振りきり、ゲートを抜ける。

 一秒でも早くこの遊園地を離れたかったのよ。耳を塞いで、『ソラのスピカ』のメロディーを遮断しながら、ひたすら逃げる。

 どうして……どうして、こうなったんだろう?

 なぜ私が逃げなくっちゃいけないの?

 音楽と関わる限り、この呪いから逃れる術はなかった。

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