第432話
灯かりを点けないのは、侵入者に気取られないため。聡子さんが万一の災害に備えて置いててくれた、懐中電灯がまさかの役に立つ。
またピアノの音色が聴こえてきた。
「律夏ちゃん、起きて!」
肩を揺すって呼びかけると、律夏ちゃんは半目がちに首をもたげる。
「……なぁに? 響希チャン……こんな真夜中に……」
「誰かがピアノを弾いてるのよ。ほら、今も」
しかし律夏ちゃんは懐中電灯の光から逃れるように、お布団に潜ってった。
「気のせいでしょ? 気のせい。こっちは眠いんだからさあ」
そしてお布団の向こう側へ抜け、惰眠の続きを貪るの。
うぅ……緊急事態なのに。
「しょうがないわね。栞さんだけでも」
めげずに、わたしたちは栞ちゃんを起こしに掛かる。
「ん……な、なんですか……?」
栞ちゃんはおもむろに目を覚ますと、懐中電灯の眩しさに眉を顰めた。それでも律夏ちゃんとは対照的に、聞く体勢にはなってくれる。
「ピアノの音がするんだよ。誰かがスタジオに忍び込んでるのかも……」
「あぁ……そんなことですか。大したことじゃありませんよ」
寝惚け眼のまま、栞ちゃんは淡々と言ってのけた。
「ユーレイが弾いてるんですよ、ユーレイが。よくあることですから」
「な、ないないっ!」
その可能性は考えたくなかっただけに、わたしも麗奈ちゃんもかぶりを振る。
「ユーレイも気が済んだら、切りあげてくれます。それじゃ……」
「栞さん? 寝ようとしないで」
結局、律夏ちゃんも栞ちゃんも睡魔に勝てなかった。
無理ないか。練習で疲れてるのは、ふたりも同じ。なのに夜中に叩き起こされて、開口一番『ピアノが聴こえる』だもん。
わたしと麗奈ちゃんは腹を括って頷きあう。
「ふたりだけで行くしかないわね、響希」
「……うん!」
怖いけど、麗奈ちゃんと一緒なら……ね。
麗奈ちゃんが前で懐中電灯を構え、その後ろにわたしがぴったりとくっつく。
「あ、歩きにくいったら」
「ごめん。でも……」
わたしの手は麗奈ちゃんのシャツを掴んで離さず。
わたしのTシャツ(パジャマの代わり)も少し汗ばんでた。夏の暑さのせいもあるんだろうけど、身体のほうは冷えてる気がする。
廊下を進むたび、わたしたちの足音が反響した。スタジオの中は緑色の非常灯を残し、ほとんどが闇に飲まれてる。このルートは窓がないから、ほんとに真っ暗。
まずは隣の部屋へ赴き、マネージャーの月島さんをあてにする。
「あれ? 月島さん?」
そのつもりが、そこに月島さんの姿は見当たらなかった。お布団が敷いてあるだけで、もぬけの殻になってたの。
俄かに不安は大きくなるものの、ひとつの推測が成り立つ。
「ひょっとして……月島さんがピアノを?」
しかし麗奈ちゃんは相槌を打ってくれなかった。
「どうかしら? 夜中にこっそり起きて、ピアノを弾くなんて真似しなくても……。それに月島さん、楽器はひとつも弾けないって、言ってなかった?」
「あ……そっか」
合宿の初日に月島さんがぼやいてたのを思い出す。
『楽器のひとつでも演奏できれば、私もアドバイスくらいできるのですが』
そんな月島さんがピアノを弾けるはずがなかった。童謡ならまだしも、ショパンなんてすごく難しい曲だし。
でも、わたしたちと同じように異変に気付き、確かめに行ってる可能性はあった。
「月島さんのケータイ、鳴らしてみよっか?」
「お願い」
一縷の望みを託し、わたしはケータイで月島さんに掛けてみる。
すると、お布団の脇で月島さんのケータイが振動した。……残念、月島さんはケータイを持たずに、この部屋を離れたみたいだね。
「わたしたちも行くわよ。月島さんをひとりにはできないもの」
不気味な音の出所を突き止めるべく、わたしと麗奈ちゃんは耳を澄ませる。
「でも……麗奈ちゃん、このスタジオにピアノなんてあるのかな?」
「キーボードかもしれないわね」
確かに今夜のピアノは、どことなく作りものめいて感じられた。いつもキーボードを弾いてるから、よくわかるよ。
「じゃあキーボードで……もしかしてっ?」
わたしはぎょっとして、おたおたと麗奈ちゃんの裾を引っ張る。
「誰かがわたしのキーボードを弾いてるのかも!」
「まさか……いいえ、でも……」
同じ想像に至ったらしい麗奈ちゃんも、顔色を変えた。
まだ演奏は続いてる。そして、その出所はわたしたちの練習場所に近い。
上の階でも下の階でもないよね、これ……。わたしは息を飲むと、麗奈ちゃんとともに懐中電灯を頼りにして、闇の中を慎重に進んだ。
練習部屋の前で麗奈ちゃんが足を止め、後ろのわたしに囁きかける。
「開けるわよ? 響希」
「だ、大丈夫。麗奈ちゃん、お願い」
麗奈ちゃんの手が恐る恐る扉を開けた。そのドアが開ききらないうちに懐中電灯をかざし、部屋の中央をライトアップ。
そこには最後に見た時と同じ、わたしたちの楽器が並んでるだけだった。わたしのキーボードも埃除けのカバーを被せられ、沈黙を守ってる。
問題の音色はさらに隣の部屋から聴こえた。
「……ここじゃない?」
「隣だよ、麗奈ちゃん。あと、この曲はモーツァルトの……」
パパの好きな曲が、わたしにいっそうの動揺をもたらす。
ショパンやモーツァルトには悪いけど、クラシックは夜に聴くものじゃないんだね。わたしと麗奈ちゃんは恐怖に駆られながら、ついに『犯人』と一枚の扉を隔てる。
ところが――その時。
『オォーン』
と、掠れた歌声が響いてきたの。
しかも曲はシューベルトの『魔王』で。
「れっ、れれ、麗奈ちゃん?」
「だ、大丈夫よ。多分……ええ、大丈夫に決まって……」
わたしも麗奈ちゃんも度を失い、へっぴり腰で狼狽しまくった。
だって、よりによって『魔王』だよ? 幼い子どもが魔王に追いまわされ、連れ去られるという――その行く先は『あの世』かもしれないわけで。
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