第323話
コンサートのあと、わたしは舞台の上でリカと火花を散らす。
「杏の変態! スケベ! どさくさに紛れてぇ」
「あなたが先にしたんでしょうっ?」
奏はギターを抱え、咲哉とともに踵を返した。
「付き合ってらんないわ。先に戻りましょー、咲哉」
「ああいうの、わたしは好きよ? 微笑ましくって……うふふ」
「アタシも行くわ! 待ってー」
やがてリカも決着を諦め、追いかけていく。
結依は空笑いを引き攣らせながらも、わたしの傍に留まってくれた。
「あはは……いきなりキスされるから、びっくりしちゃいましたよ? 杏さん」
「その割にあまり動じてないみたいね……あなた」
「だって、杏さんとは二回目ですし? 奏ちゃんとも事故で……」
そういえば、この子は中学時代、女の子と交際してたんだったかしら? そのことは結依本人がカメラの前で暴露したせいで、ファンも知ってる。
聡子さんが歩み寄ってきて、労ってくれた。
「お疲れさまでした、杏さん! 結依さんも。とても素敵な歌でしたよ」
わたしは深々と頭を下げる。
「本当にありがとうございました、聡子さん。聡子さんが版権問題をクリアしてくれたおかげで、こうして『湖の瑠璃』を歌うことができました」
「そんな……大したことじゃありませんよ」
聡子さんは謙遜するものの、大変だったに違いないわ。
井上社長も当初は難色を示したんですって。でも熱意に折れ、聡子さんのスタンドプレーを容認してくれた。
それもまた、歌手のわたしにはできないこと。
今日のステージも、『湖の瑠璃』も、たくさんのひとの情熱で支えられてる。だからこそ、わたしはひとりの歌手として、みんなに最高の歌を届けたいの。
「少し外の空気を吸ってから、戻りませんか?」
「ええ」
聡子さんと別れ、わたしは結依と一緒にコンサートホールの二階から外へ出た。
屋上というほど高くはないけど、テラスのような作りで風がよく通るわ。午後の五時過ぎ、夏の陽はまだまだ輝きを放ってた。
それを眩しそうに、結依がてのひらで遮る。
「ですけど、意外でしたよ。お母さんの歌をやめて、『湖の瑠璃』にするなんて」
「大切な曲だもの」
自然と即答できた。わたしにとって『湖の瑠璃』は、それほどに大きいの。
NOAHで初めて練習し、みんなで歌った、始まりの一曲。作曲したお婆さんが『古臭いでしょう』と微笑んだ、とても優しい歌。
この歌なら、わたしは全力を出しきれると思ったのよ。
まだ夕方の色は遠い空を仰ぎ、結依は『あーあ』とぼやく。
「でも『蒼き海のストラトス』だって、あんなに練習したんですよ? 歌わなかったの、もったいない気もして……」
「いいのよ。別に舞台の上じゃなくっても、歌えるんだから」
そう。歌うだけなら、ステージなんていらないわ。歌手になる必要もない。
それだけのことに気付くのに、随分と遠まわりしちゃったかしら。
「じゃあ、ここで歌ってくださいよぉ」
「……ここで?」
結依のおねだりを不思議に思いつつ、わたしは息を吸い込んだ。
果てのない蒼穹へ向け、ママの歌を口ずさむ。
赤ん坊の頃、これを子守歌のように聴いていた気がした。わたしにとって『蒼き海のストラトス』もまた、大事な一曲なのね。
いつかママのように、わたしも舞台でこの歌を――。
でも、まだいいでしょう? 未熟なわたしが『自分の歌』にするには、早すぎるもの。
きっとママもわかってくれるはずよ。だから、もう少しだけ待ってて。
「……ふう」
今、やっと決着がついた。
娘として、歌手として、ママの『蒼き海のストラトス』と。
後ろのほうで小さな拍手が聞こえた。
「上手になったわね。杏」
「――マ、ママっ?」
振り返るとともにわたしは目を見張り、元気なママの姿に驚く。
「結依さんにお願いして、ここに呼び出してもらったのよ。まさか、あなたの『蒼き海のストラトス』が聴けるとは、思わなかったけど」
嵌められたんだわ、結依に。
「結依っ? あなた、ママがいると知ってて、わざと……」
「えへへ……こうでもしないと、杏さん、お母さんに歌ってあげないでしょ?」
確信犯的なウインクが小憎らしかった。
ママがくすっと微笑む。
「もう杏もプロの歌手だものね。一曲目にはびっくりしちゃったけれど……『湖の瑠璃』は本当に最高だった。今まで何百回と聴いてきた中で、一番」
「何百回って……わたし、ライブで歌ったのなんて、ほんの数回よ?」
「母親がCDを買ってない、とでも? 毎朝聴いてるわ」
思いもよらない言葉に、わたしを目を白黒させた。
わたしの歌を、ママは毎朝……?
それが本当なら、わたしばっかりママに距離を感じてたんだわ。
ママは毎日、わたしの歌と一緒にいてくれた。なのに、わたしはママに歌を聴かせられないと、駄々を捏ねたり、悩んだりして……。
道理で壁を超えられないわけよ。
ママは明松屋千夜の顔で結依を見詰める。
「こんなに素敵な仲間にも囲まれて、羨ましいくらいよ。杏と一緒に歌ってた、ギターの子もよかったし……結依さん、あなたの歌も、とても可能性を感じさせてくれた」
「あ、ありがとうございます」
可能性。それはわたしや結依に限らず、みんなが持っていた。
でも持ってるだけじゃ、単なる可能性に過ぎないの。いくら『夢』や『希望』という綺麗な言葉で飾っても、現実になりはしない。
そして、わたしはまだスタートラインに立っただけ。
明松屋杏の、歌手としての人生はまだまだ続くのよ。この夏も、次の夏も。
「結依。わたし、決めたわ」
わたしは結依と、ママにも頷いてから、高校三年生の決意を表明した。
「L女を卒業したら、大学に行って……通いながら、NOAHを続けようと思うの」
ママは最初からわかっていたように温かい笑みを綻ばせる。
「なら、実業団には入らないのね」
「……うん。わたし、この業界でもっと勉強したいの」
わたしは結依を見詰め、ウインクをお返し。
「それに、ひとりだけ一年早く抜けるのも、ね?」
「あ、杏さんっ!」
結依はわたしに抱きつき、猫みたいに甘えてきた。
「学年は別でも、NOAHは一緒に卒業ですよ? 絶対に約束ですから!」
「はいはい。……ところで、結依?」
今こそ踏み込むチャンスかも。
「あなた昨日、わたしのことを呼び捨てにしたでしょう? なのに、まだ敬語なの?」
「えぇと、あれは……その、勢いってやつで……」
可愛い後輩はたじたじに。
「許してあげなさい。あなたはお姉ちゃんなんだから」
「ひと月の差よ? わたしは三月で、この子は四月生まれなの」
まだまだ暑い夏は続く。
NOAHの夏はツアーを経て、アイドルフェスティバルを迎えるまで――。
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