第311話

 前期の期末試験も終了し、いよいよ夏休みは目前。

 玲美子さんの演技指導も今日で最後となった。

「とりあえず基礎は一通り教えてあげたつもりよ。お疲れ様」

「はい! ありがとうございました」

 わたしは深々と頭を下げる。

 感謝の気持ちでこんなに頭を下げたの、初めてだわ。

 玲美子さんは自分の時間を割いてまで、わたしを指導してくれたの。おかげで、この短期間のうちに多少は棒読みを改善できた。

「もっと上手になりたいのなら、事務所を通して、先生をつけてもらいなさい。アイドルでいる限り、ドラマの撮影なんかもまた入ってくるでしょうし……」

「……いいえ、玲美子さん」

 玲美子さんの言葉を遮り、わたしははっきりと断言する。

「わたしは歌の練習のつもりで、玲美子さんに演技の指導をお願いしたんです」

 玲美子さんは目を丸くして、それから噴き出した。

「そうだったわね。明松屋千夜の娘がいつまでも『棒読みの歌姫』じゃ恥ずかしいもの」

 すべては夏に堂々と歌うため。

 みんなにわたしの最高の歌を聴いてもらうために、頑張ったんだから。

 ひとしきり笑ったあと、玲美子さんが付け足す。

「ここからはわたしの個人的な意見だから、聞き流してくれていいんだけど……あなたがNOAHのステージで『蒼き海のストラトス』を歌うことは、ないと思うわ。引導でも渡すつもりで、デスメタでも歌ってあげれば?」

 今度はわたしのほうが噴き出しちゃった。

「そんなの歌ったら、結依や咲哉のイメージまでダウンしますよ?」

「いいじゃないの、それで。明松屋千夜が本当にあなたのお母さんなら、娘が何を歌っても、受け入れてくれるはずよ」

 咲哉や奏も同じことを言ってたわね。

 わたしはずっと、ママの歌を歌うことしか考えてなかった。

 歌わなくっちゃという強迫観念に駆られるあまり、周りが見えなくなってた。

 でも、わたしを支えてくれる曲は『蒼き海のストラトス』だけじゃないわ。奏と一緒に作ってる『サンプルA』もあれば、大好きな『湖の瑠璃』もある。

 玲美子さんがほくそ笑む。

「あなたの歌が上達すればするほど、結依ちゃんの歌も上手くなるわ。あの子は自分より上手いひとに感化されて、どんどん伸びるタイプだから」

 わかる気がした。結依はリカや咲哉、奏から、たくさんのものを吸収してる。

「結依は今に玲美子さんより上手になりますよ? 歌も、演技も」

「言ってくれるじゃないの」

 結依の才能にはみんなが気付き始めていた。

 あの子はもう素人でも、新人でもない。

「じゃあ、そろそろ失礼します。聡子さんに呼ばれてまして」

「結依ちゃんにもよろしくね」

 わたしは玲美子さんと別れ、マーベラスプロの駐車場にある、聡子さんの車へ。

 夏のことで刹那と打ち合わせしてたらしい結依も、戻ってきた。

「お待たせしました~。杏さん、聡子さん」

「もしかして海のこと?」

「はいっ。すごいんですよ、別荘! 浜はプライベートビーチで」

「楽しみもないと、ですね。それじゃ行きますよ」

 結依を乗せるや車が走り出す。

 まだ目的地を知らず、わたしはバックミラー越しにマネージャーを見詰めた。

「聡子さん、今からどこへ?」

「結依さんと杏さんにぜひご挨拶していただきたい、作曲家の先生がいるんです。そんなに遠くありませんので」

 わたしと結依は顔を見合わせて、首を傾げる。

「……作曲家? NOAHの楽曲を手掛けたかたかしら」

「『Rising・Dance』は藤堂さんが作ってくれたんですよね」

 ほかに思い当たるのは、霧崎タクトと……。朱鷺宮奏は一緒に暮らしてるんだから、挨拶に伺うまでもないわ。

 やがて、わたしたちは古めかしい一軒家へ辿り着いた。

 お庭では何か育ててるみたいね。生活感とともに情緒にも溢れ、住人の穏やかな暮らしぶりが伝わってくる。

 聡子さんがインターホンを押した。

『はい。どちら様?』

「私、VCプロの月島聡子と申します。本日はお礼の件で伺いました」

『まあまあ……ええ、聞いてるわ。少しお待ちになって』

 しばらくして、ひとりのお婆さんが出迎えてくれる。

「どうぞ、おあがりくださいな」

「あ、はい」

 わたしと結依は緊張しつつ、聡子さんに続いてお屋敷に足を踏み入れた。そのまま居間へ通され、座布団の上で正座する。

 一方で、お婆さんはまだ座ろうとしない。

「お茶などいかが?」

「いえ、お構いなく……」

「せっかくのお客様ですもの。おもてなしさせてちょうだい」

 わたしは一旦立ちあがり、お婆さんに申し出た。

「じゃあ、わたしもお手伝いします」

「あらそう?」

 このお婆さんは多分、寂しいんだわ。あちこちにお孫さんの写真を飾ってる。

「主人が去年、亡くなってねえ……話し相手もいないものだから」

「そうだったんですか……」

「気にしないでちょうだいね? 私のような年寄りには、よくあることよ。息子も『一緒に暮らそう』と言ってくれてるし、恵まれてるほうだわ」

 この慎ましやかでいて、芯の強い雰囲気――どこかで憶えがあった。

 わたしはこのお婆さんを知ってる。

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