第310話
玲美子さんは言葉の棘を引っ込めると、トーンを落とした。
「……先月、お母さんが倒れたそうね。だったらなおのこと、『蒼き海のストラトス』を聴かせてあげたいんじゃないの?」
「はい。でも……NOAHまで『明松屋千夜の娘』にはしたくないんです」
突然、甲高い笑い声が反響する。
「アハハハッ! 確かにそうね、明松屋千夜の娘はあなただけだもの。あなたが余所で勝手に歌えばいいことだわ。それよ、それ」
「あ、あの……玲美子さん?」
大笑いに虚を突かれ、わたしは呆気に取られるほかなかった。
玲美子さんが冷ややかにはにかむ。
「わかったわ。夏まで、このわたしが杏ちゃんを徹底的に指導してあげる」
要求が通ったの……?
「ただし条件がひとつ。時間が許す限り、わたしと行動をともにしなさい。どうせ学校はテスト期間に入ってるんでしょう?」
「あ……はい。わかり――」
「声が小さいっ! あなたはわたしに教えを乞う立場なのよ!」
わたしは反射的に背筋を伸ばし、声を張りあげた。
「ハイッ!」
NOAHの全国ツアーまで、およそ二週間。明松屋杏の悪あがきが始まる。
玲美子さんの最近のお仕事は、声優業がメインみたい。わたしはお手伝いに駆り出されながら、時間を見つけては、玲美子さんに稽古をつけてもらった。
「抑揚が弱い! 強弱で波をつけないから、棒読みになるのよ。もう一回!」
「はい! お願いします!」
こんなふうに厳しく叩き込まれるのは、初めてよ。
でも玲美子さんは、理由もなしにスパルタぶってるわけじゃないの。
それだけわたしが『下手』だから。
「あなた、今まで何をやってきたの? オペラは歌劇なのよ? そんな棒読みで舞台に上がったら、オペラが台無しになるでしょうっ!」
ママは決して言わなかったことだった。
オペラに限らず、歌だって同じ。作曲家が骨身を砕いて書き、奏者が力の限りに奏でる曲を、わたしの拙い歌声が台無しにすることだってあるの。
その責任を果たせ、と玲美子さんは言ってる。
「またそうやって、台詞を字面で読む! 自分の感情に置き換えて、喋るの!」
強みであるはずの歌唱力にしても、わたしのそれは表現力がごっそりと欠けていた。総合的には、歌はリカのほうが上手いくらいなのよ。
奏の音楽に対するストイックな姿勢も、敵わないわね。咲哉のように気持ちよく歌えるわけでもない。
それが今のわたし、明松屋杏の歌。
玲美子さんと猛練習してると、藤堂旭さんがやってきた。
「こっちまで玲美子くんの怒鳴り声が聞こえてるよ。頑張ってるじゃないか」
「褒めたりしないで、旭。この子は今までずっとサボってたんだから」
「ハハハ。でもご褒美に、明松屋くんに面白いものを見せてあげようと、思ってね」
旭さんのケータイが粗い動画を再生する。
その中では、あの穏やかな蓮華さんが声を荒らげてた。
『場面ごとに切り取ってはだめ! 全体のストーリーを意識すれば、サキが取るべき次のモーションが見えてくるはずよ。その台詞、カメラは何番なの?』
『に、2番ですっ!』
必死で応えてる若手は、まさか……リカ?
『じゃあ……ここで視線を相方に向けて、間を取れば……』
『理解できたなら、もう一度よ。位置について!』
リカが連絡を絶ってまで、ロケに没頭してる本当の理由が、そこにあった。
あの天才子役と謳われた玄武リカでさえ、超一流の役者に囲まれたら、ヒヨッコなんだわ。蓮華さんのスパルタ指導に食らいつき、少しでも差を縮めようと、頑張ってる。
藤堂さんは大人びた笑みを綻ばせた。
「玄武くんは今より大きくなって、帰ってくるんだよ。負けられないだろう?」
初めてNOAHの仲間と『一緒』になれた気がする。
「はい! もう絶対、みんなの足を引っ張ったりしません」
「だったら、口だけじゃないってところを見せてもらわないと。さあ声を出してっ!」
あなただけじゃないのよ、リカ。歯を食い縛って、あがいてるのは。
わたしとあなたと結依で結成したNOAHを、もっと、もっと輝かせるために。
はこぶね荘でお夕飯を食べながら、わたしは物真似してみる。
「奏ったら、まだピーマン食べられないワケ? 高校二年生にもなってぇー」
こっそりピーマンを端へ寄せてた奏が、それこそピーマンを食べた時の顔になった。
「杏、それ……リカの真似したつもり?」
結依と咲哉は愉快そうに笑いだす。
「あははっ! 雰囲気は出てますよぉ、杏さん」
「方向性は間違ってないわね、うふふ。似てるかどうかは微妙だけど」
奏も表情を戻しつつ、意外な高評価をくれた。
「似てるようで似てないのが、ジワジワ来るわね……。明松屋杏が玄武リカを真似しました感、っていうの? は出せてるわ」
「でも、いつもの棒読みは? あれはあれで味があるのに」
容赦がないのは、むしろ咲哉ね。
もちろんマネージャーの聡子さんは事情を知ってた。
「杏さんは今、秘密の特訓中なんです。結依さんもうかうかしてられませんよ」
「やっぱりそうだったんですか? 忙しそうにしてるから……」
だけど、特訓の内容は内緒よ。玲美子さんの指導を受けてるなんて言ったら、みんな、玲美子さんのことを誤解するでしょうし。
ついでとばかりに結依が聡子さんを問いただす。
「聡子さんもあちこち走りまわってるって聞きましたよ。何やってるんですか?」
「全国ツアーの件で色々と……宿の確認などで慌ただしくなってるんです」
その聡子さんは奏へ質問をパス。
「奏さん、例の『サンプルA』のほうは進捗、どうでしょうか」
誰も彼も忙しいせいで、全員が集まるのは、夕食の時くらいなのよ。
「順調ですよ。早ければ、九州のライブにも間に合うかと」
「あの曲なら、パンクスタイルの新作も映えるわ」
奏の『サンプルA』と並行して、咲哉の新しいステージ衣装も目処がついていた。
パンクスタイルでロック――相性は抜群でしょうね。
心配そうに結依や咲哉が口を挟む。
「けど『サンプルA』はほとんど練習できてないよ? リカちゃんは特に」
「歌詞もできてないんでしょう? ツアーで歌えるのかしら……」
「歌詞のほうは大丈夫よ」
それに対し、奏はしれっと言ってのけた。
「前に杏が書いた、痛々しいやつがあるから。あれを――」
「ちょ、ちょっと? 何のこと……じゃない、どれのこと言ってるのっ?」
わたしは跳ねるように立ちあがり、テーブル越しに奏を責める。
た、確かに……その通りよ? NOAHの企画で五月頃、自作の歌詞を発表してからというもの、少しずつノートに書き溜めてあるの。
しかし、あれは『羞恥心の爆弾』よ。通学鞄の奥底に仕舞っておいたはず。
「あのノートでしょ? 刹那が全部のページ、写真に撮って、まわしてくれたから」
「ででっ、電話してくるわ!」
まさかSPIRALの仕業だったなんて!
『ああいう青臭い歌詞がいいのよ。ありのままの気持ちが表れて……』
「それとこれとは話が別よっ。憶えてなさい? 刹那」
有栖川刹那に釘を刺してから、リビングへ戻ると、結依が感心気味に頷いた。
「なんだか杏さんの声、前より張りがよくなってませんか?」
「怒ってたせいでしょう。結依、あなたも刹那には油断しないようにね」
その数日後には、わたしの抵抗も虚しく歌詞が決まる。
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