第312話
会うのは今日が初めてでも、他人という気がしないの。
「さあ、戻りましょうか」
「……ええ」
再び居間でお茶の湯気を呷りながら、わたしたちは対面した。
聡子さんがお礼を述べる。
「曲の件、本当にありがとうございました。おかげで歌うことができます」
「いいえ、そんな……こちらこそ版権の関係で、振りまわしてしまったみたいで、本当にごめんなさいね」
「先生のせいではありませんよ。でも助かりました」
わたしと結依はあっと声を重ねる。
「版権ってまさか……杏さん!」
「そ、そうよ! じゃあ、このかたが『湖の瑠璃』を……」
わたしたちがたった今挨拶してるのは、あの『湖の瑠璃』の作者だったのよ。
楽曲の評価は決して高いわけじゃない。テレビドラマのエンディングで二回、オンエアされただけ。
でも『湖の瑠璃』は、わたしと結依とリカが初めて一緒に歌った、大切な曲。わたしたちにとっては本当の意味でのデビュー曲だった。
「大野監督はご存知かしら? 大野さんとは昔から親交があってねぇ」
リカが海外ロケに参加してる映画の、総監督ね。
大野監督とのコネクションは今なお生きてて、お婆さんは去年、ドラマのエンディングテーマを担当することになったそうなの。
「作曲家人生の仕事納めにどうか、って。もう曲を書くことはないでしょう」
知らなかったわ……『湖の瑠璃』にそんな経緯があったなんて。
ドラマの版権が絡んでるせいで、わたしたちは『湖の瑠璃』を自由に歌うことができなかったはず。その枷を外そうと、今日まで走りまわってたらしいのが、聡子さん。
「関係者のみなさんが賛同してくれたおかげで、クリアできたんですよ。それでも法律上の問題ですから、難航はしましたね……」
わたしや結依じゃ絶対にできないことだわ。聡子さんはNOAHが『湖の瑠璃』をいつでも歌えるように、版権の問題をきっちりと片付けてくれたの。
「わたしたちのために……」
「当然です。私はNOAHのマネージャーなんですから」
玲美子さんといい、聡子さんといい、リカにとっての蓮華さんといい……わたしたちの周りには、素晴らしい先輩が、なんて多いのかしら。
わたしも学年のうえでは、れっきとした結依の『先輩』なのに。自分をママと比べてばかりで、情けなくなってくる。
作曲家のお婆さんがおっとりと微笑んだ。
「これで『湖の瑠璃』はあなたたちの曲ですよ。大事にしてちょうだいね。若い子が歌うには、いささか時代遅れな気もするのだけど」
「時代遅れだなんて……そんなこと、ありません!」
わたしは顔をあげ、お婆さんの柔らかい笑顔を網膜に焼きつける。
「先生のようなかたに作曲していただいて、本当に嬉しいです。NOAHの一曲として、必ず……必ず歌いこなしてみせますから」
隣で結依も口を揃えた。
「わ、私も! 大切にします!」
結依にとっても存在感のある曲だものね。
わたしは歌手として、ずっと歌との運命的な出会いを求めていた。
でも、すでに出会っていたのかもしれない。かつてママが『蒼き海のストラトス』と邂逅したように。わたしはもう『湖の瑠璃』と一緒にスタートを切ってるんだから。
こうして『湖の瑠璃』はNOAHの楽曲リストへ正式に加わることに。
ファンのみんなに聴き飽きた、なんて言わせないわよ?
わたしは歌うわ。結依たちと一緒に!
☆
とうとう明日から全国ツアーが始まるわ。
学校も夏休みに入った。次に刹那と会うのは、アイフェスの一週間前ね。
「お互い頑張りましょう! 刹那」
「気合が入ってるわね。海で合流するの、楽しみにしてるわ」
刹那の占いによる不吉な予言は、頭の片隅に残ってた。でも、この予言はNOAHの窮地を救うものでもあった。おかげで、わたしはリカの本音が聞けたんだもの。
レッスンのほうも納得のいく形で締め括ることができた。
「ツアーの最中でも練習はするんでしょ?」
「折を見て、ね。練習場所は限られてくるはずよ」
助っ人の夏樹さんもツアーには同行することに。リカが合流したら、引き続きスタッフとして手伝ってくれるんですって。
「夏樹さんは本当にいいの? せっかくの夏休みなのに」
「バイト代もらって、全国まわれるんで。むしろ今年はラッキーっすよ」
「リカちゃんが戻ってきたら、びっくりするだろーね。えへへ」
遠征中のリカには、まだ夏樹さんのことを伝えてなかった。連絡が繋がらないし。
奏はあっけらかんと言ってのける。
「リカのことだから、今頃は気も抜けて、遊び倒してるんじゃない? 確かにあのメールには驚いたけど……ねえ?」
「奏ちゃんったら、うふふ。でも、そのほうがいいかしら」
みんなは知らないんだわ。リカが蓮華さんに扱かれてること。
リカは絶対に大きくなって、NOAHへ帰ってくる。そしてNOAHのアイドル活動だけで満足せず、女優への道を突き進むのよ。
だからこそ、わたしも前へ進みたかった。一流の歌手にならなくっちゃ、女優のリカと肩を並べることはできないもの。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。