第298話

 井上さんの言葉が脳裏をよぎる。

 ――あなたに歌って欲しいのよ、杏。『蒼き海のストラトス』を。

 あれを歌うのは怖い。でもママのためなら、歌いたかった。

 娘のわたしが同じ歌を歌ったら、ママはきっと喜んでくれるわ。だから、ママが元気なうちに聴かせてあげないと。こんなチャンスは二度とないかもしれないから。

 わたしが『蒼き海のストラトス』を歌えば。

「き……期待してて、ママ。びっくりさせてあげる」

 決意表明のつもりなのに、声が震えた。

「ふふっ。楽しみにしてるわ、杏」

 ママは窓から青い空を仰ぐと、静かに息を吸い込む。

 その唇から紡ぎ出されたメロディーは、あの歌だった。『蒼き海のストラトス』。

 小さな病室から、遥かな蒼穹へと、幻想的な歌声が想いを馳せる。合間の息継ぎさえ、わたしの胸に何かを訴えかけてくるかのように。

 わたしは心を奪われた。

 ママの歌に。

 病院のベッドで横になりながら、気休め程度に歌っただけのものよ? 発声には張りがなく、音の伸びも悪い。だけど圧倒されるの。

 その歌にママが込めた、想いの強さに。

 わたし以上に歌を愛してるひと。愛せるひとが、目の前にいた。

 ママにとっての『蒼き海のストラトス』は、歌手としての人生を決定づけた、かけがえのない曲なのよ。でも、わたしにとってのそれは、この苦い気持ちは……?

 ママには敵わない。

 わたしの歌じゃ、ママには永遠に追いつけない。

 歌手の道に進んだことを――わたしは今、初めて後悔した。

「……杏?」

 ママに声を掛けられ、歌が終わったことに気付く。

「あ……ううん、なんでもないの」

 親と同じ道を拒んだ弟は、正しかったのね。

 明松屋杏はこれからもずっと明松屋千夜と比較されるのよ。そして、娘は決して母親を越えられない。音楽の世界にいる限り、畏怖という名の劣等感に苛まれる。

「――ゴホッ!」

 不意にママが咳き込んだ。

「ママ! 大丈夫っ?」

「ちょっと噎せただけよ。やっぱり歌うなら、立たないとだめね」

 本当に噎せただけ……? 病気のせいじゃなくて?

 ママは嬉しそうに笑みを綻ばせた。

「そうそう、マーベラスプロのかたに聞いたわよ。杏、私の『蒼き海のストラトス』を歌ってくれるんですってね。VCプロの社長さんも一度、ご挨拶にいらしたわ」

「井上さんが? そう……」

 わたしは曖昧な返事しかできず、唇を噛む。

 たとえ娘には偉大な母親を越えることができなくても。

 ママが生きてるうちに喜んでくれるなら、わたしは歌うべきなのかもしれない。

「あの歌を託せるのはあなただけよ、杏。頑張ってちょうだい」

「……うん」

 そうよ、頑張らなくっちゃ。

 ママのために。この夏はママのために歌おう。


                  ☆


 今夜は肝が冷えたわ……。結依とリカが衝突して、一触即発だったのよ。

 さる高名な映画監督の新作でね、主演に穴が空いたそうで、代役の話がリカのもとへ転がってきたの。ところが撮影は七月で、しかも海外。

 リカはNOAHの全国ツアーを優先して、首を縦に振らなかった。

 けど、結依はリカが海外に遠征するものとして、井上さんと話を進めてしまったわけ。

 結果的にリカは映画に出演することを決め、なんとか丸く収まったわ。

 泣き疲れたらしい結依とリカは、顔だけ洗って、お部屋で休んでる。今は咲哉がお風呂に入ってて、わたしは奏と一緒にリビングで、解放感に浸ってた。

 奏はノートで楽曲を調整しつつ、文句を垂れる。

「ったく……リカのやつ。アホが無理に頭使ったりするから」

「リカなりに一生懸命、悩んでたのよ」

 奏の罵倒は行き過ぎにしても、本当に思いもよらない展開だった。

 いつもは能天気なリカが、NOAHのこと、あんなに真剣に考えてたんだもの。映画女優としてのチャンスを蹴ってまで、NOAHの夏を優先したがるなんて……。

 同じことがわたしにできる?

 ……わからないわ。

 わたしにとっても、NOAHは唯一無二の存在になりつつある。だけど、自分の夢よりNOAHを選べるとまで、この絆を自惚れることはできなかった。

「結依のこと、奏と咲哉で慰めてくれてたんでしょう? ありがとう」

 先ほどの修羅場をNOAHが乗り越えられたのは、メンバーのおかげ。奏と咲哉が結依についてくれたから、わたしはリカを追うことができた。

「そっちこそ。よくあの強情なリカを言い包めて、引っ張り出してきたわね」

「正直な気持ちを話しただけよ」

 昔のわたしだったら多分、結依に味方して、リカに怒ったでしょうね。

 でも、はたと刹那の占いを思い出したの。ここで間違えたら、NOAHは『分裂』しかねない――そう思ったから、リカのフォローにまわった。

 奏は真顔で言ってのける。

「あたしなら迷わず、NOAHを見捨てて海外へ飛んでたわ。さっきの結依の言葉じゃないけど……アイドルごっこに甘んじて、チャンスを棒に振る真似はできないもの」

 アイドルごっこ。そう言いきったのは、センターの結依よ。

 わたしにとっても今やNOAHの活動は、忙しいだけじゃない。恥ずかしいけど楽しくて、充実してるなあって、実感する。

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