第299話
だけど、いつまでも安らいではいられないわ。
『NOAHの活動は今だけでも、女優としての人生はずっと続くんでしょ?』
ほかでもないセンターの言葉だからこそ、わたしたちもはっとした。
結依にはわかってるのよ。
アイドル活動は何の実績にもならない、ということが。
実際、アイドルを『満期』で卒業後、芸能界で大成したようなひとは、ひとりとさえ思い当たらなかった。男女問わずね。
アイドル活動を途中で脱退し、別の道へ進んだひとの話は、時々聞くけど。
漫然とアイドルを続けてるだけじゃ、いずれ袋小路に陥るの。その事実をノンキャリアの結依に突きつけられちゃうなんて、情けない話よ。
本当に……結依はわたしなんかより、ずっと前を走ってるのね。
「杏先輩は喧嘩しないでよ? リカの十倍は頑固なんだから、骨が折れそう」
「肝に銘じておくわ。ところで、その曲は?」
わたしは奏の後ろからノートパソコンを覗き込んだ。
壁紙がタメにゃんなのは、見なかったことにするとして……。新曲のフレーズが、頭の中でダイレクトに再生される。
「NOAHの楽曲ってわけじゃないわよ。提出はするけどね、一応」
「ふぅん……やっぱりロックが好きなのね、奏は」
わたしにはあまり馴染みのないビートだった。
奏が自嘲の口を挟む。
「まっ、あたしには歌えないんだけど」
その曲は全体的に音域が高かった。低音域に特化した奏の声質じゃ、厳しい。
「昔のあたし用に書いてみたの」
「ああ……なるほど」
この子も昔は、わたしと同じくらいの高音が出せたらしいのよ。わたしとしては、今の超低音の声のほうが、すごいと思うんだけど。
奏の瞳が眩しそうに楽譜を見詰める。
「去年のうちはさ、自分で歌えもしない曲を書くの、ほんと悔しくって……。でも一年も経ったら、なんか冷静に書けちゃったわけ」
刹那が言ってた、キルケゴールだったかのアドバイスが腑に落ちた。
挫折を知り、それを乗り越えた人間は強い。観音玲美子のみならず、朱鷺宮奏や九櫛咲哉も、絶望の淵から這いあがってきただけのパワーがある。
ひょっとしたら、ママも――。
「なんなら杏が歌ってみない? これ」
「え……?」
奏の楽譜を前にして、わたしは目をぱちくりさせた。
「確かに歌えるとは思うけど……これはでも、あなたの曲でしょう?」
「だから、作曲者に朱鷺宮奏のクレジットが入るんだってば」
意外な曲との出会いが、心に触れる。
「近いうちに音源をつけて、あんたにあげるわ」
「え、ええ。ありがとう」
わたしの持ち歌にするには、いささか派手すぎる気がするけど。
まだタイトルすら決まっていない『サンプルA』が、ストック入りした。
☆
パスポートを取りにアタシ、玄武リカは実家へ。
さすがお妙さん、もう準備してくれてたわ。ついでに海外ロケの分の着替えまで。
「奥方様にもご挨拶なさっては、どうですか?」
「うん。お父さんは稽古中だっけ?」
「そろそろ終わる頃でしょう。……ほら、坊ちゃんが」
練習用の袴の恰好で、弟の創(はじめ)がアタシの傍を通り掛かった。
「どっか行くの? 姉さん」
「撮影で海外にねー。お土産、なんか買ってきてあげよっか」
「別にいいって。いってらっしゃーい」
相変わらず可愛げのない弟だわ、ほんと。
ちょっと懲らしめてやろうと、アタシはケータイを取り出す。
「創、創っ。いいもの見せたげる」
「へ? 何を――」
その写真を目の当たりにするや、弟の動きが止まった。
なんたって『明松屋杏のメイドさん』よ? 杏のファンにはたまんないでしょ。
案の定、創は息を吸うとともに赤面し、血走るくらいに目を見張る。
「ちょっ、ちょちょちょっ! 姉さん? なんだよ、それ……あっ、まだ!」
アタシがケータイを遠ざけると、ワンテンポの遅れで追ってくるのが、面白い。さらに別の一枚を見せつけると、弟は鼻から息を噴いた。
「おおおおっ?」
こいつを杏に会わせるのは、危険だわ……。
アタシはケータイを仕舞い込んで、お妙さんとスケジュールを確かめる。
「んまあ、三週間も……。お泊まりはずっとホテルで?」
「ロケ地で丸ごと借りるんだって。ただ、買い物は不便って話だからぁ」
「姉さん! いや、お姉様っ!」
なんてふうに無視を決め込んでたら、腕にしがみつかれた。
「さっきの明松屋杏の写真! マジ頼むから! 一生のお願いだからさあ~!」
もう必死ね、こいつ。
お妙さんと一緒にあとずさりながら、アタシはかぶりを振る。
「悪いけど、この写真は非公式なやつで……勝手にあげたりはできないのよ。美男子ならまだしも、創みたいなのじゃ、杏も嫌だろうし……」
「ちゃんと一生大事にするから! なあ?」
往生際の悪い彼氏じゃあるまいし。
とうとう創は土下座までして、額を畳に擦りつけた。
「世界で一番美しいお姉様! どうかっ! 僕にご慈悲を……お恵みを!」
そんな弟に姉のアタシができるのは、ケータイで撮ることだけ。
「さあさあ、お嬢様。奥方様にご挨拶していきましょう」
「そーねー」
「ちょっ? ねえさ……姉さぁーん!」
弟って……バカなの?
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