第293話

 井上さんは神妙な面持ちで口を開く。

「あなたに歌って欲しいのよ、杏。『蒼き海のストラトス』を」

「……っ!」

 五感のすべてが一瞬、停止した。

 一度はダウンした頭が、少しずつ復旧する。

「あの歌を……ですか?」

「ええ。権利関係は全部クリア。多少はアレンジで手を加えるでしょうけど」

 わたしがママの歌を……?

 明松屋千夜の代表曲『蒼き海のストラトス』は、わたしにとっても思い出深い一曲よ。ママと同じ曲をステージで歌えるなんて、俄かには信じられない。

 あれは今もマーベラス芸能プロダクションに所属してる、ママの持ち歌だから、権利関係の調整は難航したはず。それでも井上さんは交渉を成し遂げ、『蒼き海のストラトス』をNOAHの楽曲に加えることに成功したんだわ。

「『湖の瑠璃』と違って、あなたが自由に歌えるのよ。どう?」

 井上さんの言葉がわたしの心を揺さぶる。

 同時に頭の中で、いつぞやのママの台詞が反響した。

『杏。あなたは、あなたの歌で私を追いかけてきてちょうだいね。母親だから、私はあなたに自分と同じことをして欲しいけど……あなたは私じゃないんだもの』

 胸の真中に、不意にぽっかりと穴が空く。

「い――嫌ですっ!」

 我に返った時には、声を荒らげたあとだった。

 井上さんは驚き、目を丸くする。

「……杏?」

「あ、その……わたし、ママの歌は、どうしても……」

 自分でも理由がわからず、答えようにも、歯切れが悪くなってしまった。

 ママの『蒼き海のストラトス』は、わたしにとって思い出の曲。

 でも、それは決して憧れの対象ではなかった。いうなれば、畏怖の対象なのよ。わたしはこの曲の価値を知りながら、誰よりも怖がってる。

「あなたにとっては覚悟が要る曲なのね」

 井上さんは溜息をつくと、椅子を反転させた。

「無理にとは言わないわ。でも、考えておいてちょうだい」

 社長なんだから、本当は無理強いできる立場よ。わざわざ骨を折ってまで、権利関係を洗った、それだけじゃない。明松屋杏のためを思って、この名曲を獲得してくれたの。

 なのに、歌手のわたしが拒絶するなんて。

「ごめんなさい。心の整理がついたら、お引き受けしようと思いますので……」

「焦ることはないわよ。何をどう歌うかは、あなたが決めなさい」

 わたしは井上さんの背中に向かって、深々と頭を下げた。

 それから結依たちと合流し、聡子さんの車へ。

「衣装のほうはどうなの? 咲哉ちゃん」

「どんどん発注を掛けてるところよ。来月は修羅場が確定してて……」

「その調子だと、ツアーの最中に届く分もありそうね」

 結依や奏、咲哉はステージ衣装について和気藹々と相談してる。

「……」

 その後ろで、わたしとリカはずっと黙り込んでた。

 リカのほうも社長から何か提案されたんでしょうね。明松屋杏と玄武リカはNOAHの結成メンバーとして、NOAHに貢献しなくてはならないもの。

 わたしがやるべきことは無論、ママの歌を歌うこと。

 明松屋千夜の美声をもってしか歌えないとされる、あの至高の難曲を任せてもらえたのよ? これ自体は誇らしいことで、歌手冥利に尽きるわ。

 だけど、あの曲は――。


                  ☆


 明松屋千夜の『蒼き海のストラトス』は、CDの売り上げで瞬く間に新記録を達成。楽曲の完成度はさることながら、明松屋千夜の美しい歌声がファンを魅了した。

 海外でも愛され、『オーシャンズ・ディーヴァ(大海の歌姫)』と称されるほど。

 ただ、この曲はまともに歌えるひとがほとんどいない。桁外れの高音域と肺活量が要求されるせいでね。ある評論家は『歌えるのは百万人にひとり』と語った。

 ところが、それを難なく歌ってのける少女がいたの。

 明松屋千夜の娘、明松屋杏。

 誰もが驚嘆したわ。母親譲りの才能だ、これはすごい歌手になるぞ、と。

 そう。わたしの才能を開花させたのが、この曲だったのよ。

 小学生の頃は何度かカメラの前で歌ったこともあった。おかげで、わたしは絶大な人気を博し、玄武リカに並ぶ寵児と持てはやされたの。

 でも、わたしにはわかってた。

 ママが歌う『蒼き海のストラトス』には敵わない、って。

 ただ単に、楽譜の通りに声を出せるだけ。

 それを歌の先生は見逃さなかった。 

『杏さん。これはどういう心境で作られた曲だか、わかるかしら』

『この歌詞は誰の気持ち? どんなひとが歌ってるの?』

 何も答えられなかったわ。

 わたしの歌には『母親譲りの美声』以外のものが全部、欠けていたわけ。

 先生は特に表現力の乏しさを指摘してくれた。でも表現力だけの話じゃなくって。歌うことの意味も、その責任も、考えたことがなかったのよね。

 ママの真似をしてるだけ――そう自覚してから、歌うに歌えなくなってしまった。

 本当は今でも怖いわ。わたしの歌が通用するのは、ママの名前があるから。どんなにママそっくりに歌っても、娘じゃ二番煎じにしかならない。

 誰かが『子どもは親のコピーじゃない』と言った。

 それは正しいことよ。でも、じゃあ子どもは親の力なしに、何ができるの?

 その現実を突きつけてくるのが『蒼き海のストラトス』だったの。いつしか、わたしはその曲を聴くことさえ怖くなって、耳を塞いだ。

 ママの歌だけは歌いたくない。

 あれを歌ったら、わたしはまた『明松屋千夜の娘』に逆戻りだもの。そして未来永劫、ママと比較されるだけの存在になる。

 ボイストレーニングの間も、そんなことばかり考えてた。

「どうしたの? 杏ちゃん。ぼーっとして」

「え? ……あ、ごめんなさい」

 咲哉に声を掛けられ、はっとする。

 今日はわたしと咲哉のふたりでボイトレなの。咲哉は歌が苦手だから、わたしや奏で練習をフォローする必要があった。

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