第292話
さらに奏は溜息交じりにぼやく。
「難しいのよ、あんたの歌は。キーが高いなんて次元は逸脱しちゃってるから」
「わたしの歌はまだ作ってくれないの? 奏ちゃん」
「あんたの場合も、杏と逆の意味で難しいのっ」
咲哉の横槍はさておいて。
インタビュー記事でも『蒼き海のストラトス』の問題点が挙げられていた。
明松屋千夜のほかに歌えるひとがいないのよ。
みんな聴くことはできても、自分では歌えない。カラオケにも登録はされてるものの、滅多に選曲されないから、印税もほとんど入らなかった。
わたしは歌えるけど……。
「そっか! 歌合戦で聴いたよ、この曲でしょ」
結依がすっくと立ちあがり、大きく息を吸い込む。
「あ~あ、あぁ……あ?」
予想通りの結果に、わたしと奏は口を揃えた。
「難しいでしょう?」
「人類には早すぎる曲なのよ、それ」
だったら、わたしのママは宇宙人ってことかしら……。
「ア~ア、アッアァ~!」
「やめてえ~!」
宇宙人はむしろ咲哉ね。
ソファーでひっくり返りながらも、リカはいつぞやの曲を推した。
「版権の都合つけて、もう杏のは『湖の瑠璃』でいいんじゃない? 母親が『海』で、娘は『湖』ってふうに。どお?」
「それ、いいね! 『湖の瑠璃』はNOAHにとっても大事な曲だもん」
センターの結依はガッツポーズを弾ませる。
NOAHがファーストコンサートで披露したのは『Rising・Dance』よ。ファンもNOAHのデビュー曲には、おそらくそっちを挙げるわ。
でも、わたしたちはもっと前から『湖の瑠璃』を歌っていた。出演したドラマのエンディングテーマとして。
今ではわたしの一番好きな曲よ。
ただし、この『湖の瑠璃』は版権上の問題を抱えてるの。あくまでドラマの中の一曲であって、NOAHの楽曲じゃないってこと。だから、たとえ作曲者や事務所が快諾してくれても、わたしたちで自由に歌うことはできなかった。
それに加え、ドラマはお正月に前後編で放送されただけのもの。すでにシリーズは終了し、『湖の瑠璃』も『使い終わったもの』とみなされていた。
わたしたちの本当のデビュー曲は……地上波のテレビで二回、流れただけ。
ゆくゆくはNOAHのアルバムに収録という話だけどね。コンサートで歌うなら、毎回必ず、申請やら許可やらが必要なのよ。
センターの結依は待ちきれない様子で、伸びをする。
「あーあ。早くフルメンバーで歌うやつも、完成しないかなあ」
「それも奏が作ってんのぉ?」
奏が切り札を仄めかす。
「ううん。でもタイトルはちらっと聞いたわよ。『DREAM』ですって」
この夏をNOAHが乗り越えるための、最後にして最高の一曲。
そのフレーズに結依はどことなく陶酔の表情だった。
「ドリーム……夢……」
梅雨が明けたら、いよいよ夏が始まるわ。
全国ツアー、そしてアイドルフェスティバル。咲哉も高揚しつつあるほどよ。
「夏で勢いをつけて、みんなで出場したいわ。クレハ=コレクションに」
「咲哉ちゃんの目標だもんね。みんな、頑張ろっ!」
この夏で、わたしはどこまでママに近づけるのかしら……?
明松屋千夜の娘としてではなく、ひとりの歌手として。
明松屋杏の夏が始まる。
☆
夏が近づくにつれ、NOAHの活動も忙しくなってきたわ。
CMの撮影が終わったら、スタジオに駆け込んで、ラジオの収録でしょう? 歌とダンスのレッスンも入ってきて、わたしたちのスケジュールはぎゅうぎゅう詰め。
それでも週末は必ずお休みをくれるから、感謝しないと。日曜にお仕事が入った時は、月曜のレッスンを見送ったり、学校をお休みすることもあるのよ。
学校には行けなくもないんだけど……。五月の下旬に一度、結依が倒れてるから。L女学院の厚意もあって、無理はしないように心掛けてる。
こんなに忙しいのも、夏までのこと。ツアーが始まったら、むしろ時間ができるんじゃないかって、聡子さんも言ってた。
今日はメイド喫茶で企画のあと、VCプロへ。
社長がわたしとリカに話があるそうで……今しがたリカが戻ってきた。
「何のお話だったの? リカ」
「あ……ううん? 仕事のことでちょっとねー」
いつもの能天気な表情で、リカは頭をぽりぽりと掻く。
社長に呼び出されたんだから、それなりに重要な話だったんでしょうけど。わたしは気付かないふりをして、リカと交替し、VCプロの社長室を訪れた。
社長の井上さんはデスクで資料を眺めてる。
「疲れてるところ、悪いわね。杏」
「いえ。社長、今日は……」
「あなたにNOAHの明松屋杏として、一肌脱いで欲しいのよ。この夏のために」
どきりとした。期待とも不安とも異なる、一種の予感が胸を高鳴らせる。
二月のファーストコンサート以来、NOAHは快進撃を続けていた。朱鷺宮奏、さらには九櫛咲哉を新メンバーに迎え、注目を集めてるわ。
話題のビジュアル系ダンスボーカルユニットとしてね。
ビジュアルは咲哉とリカ、ダンスは結依、ボーカルはわたしと奏よ。作曲やステージ衣装も自分たちで手掛け、空前絶後のブームを起こしつつあった。
けど、いつまでも独走は続かない。観音玲美子の声優復帰に始まり、SPIRALやパティシェルも夏を見据え、一斉に動き出したのよ。
玄武リカや九櫛咲哉、明松屋杏のネームバリューに頼ってるだけじゃ、NOAHは今に埋没する。それはマネージャーの聡子さんも危惧していた。
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