第294話
咲哉のほうが頭を下げる。
「謝るのはこっちよ。わたしの歌がみんなに迷惑を掛けてるんだもの……」
「め、迷惑だなんて! そんなこと」
思いもよらない謝罪を受け、わたしはうろたえた。
確かに咲哉の加入によって、歌のパート編成は手間が増えたかもしれない。咲哉はよく歌い出しで音を間違えるから、なるべく誰かが声を合わせよう、ってふうにね。
でも、邪魔だなんてことは一度も。
「誰にだって得手不得手はあるものよ。それに、あなたには、衣装の製作という大事な仕事があるでしょう? わたしはもちろん、リカや奏にも絶対にできないことだわ」
咲哉は安堵したように微笑む。
「そう言ってもらえると嬉しいわ。うふふ」
「気休めのつもりで言ったんじゃないから。本当よ?」
念を押し、わたしも同じ笑みを浮かべた。
咲哉の言葉が胸に沁みる。
「NOAHって面白いわね。作曲は奏ちゃん、演技やMCはリカちゃん、ステージ衣装がわたしで、歌は杏ちゃん。そして、みんなをひとつにまとめるのが――」
「結依ね。あの子にはリーダーの素質があるのよ」
NOAHのメンバーはそれぞれ長所を生かし、また互いに短所を補っていた。
ボイストレーニングだってそうよ。咲哉にできないことは、わたしにできる。逆に、わたしにできないことが、咲哉にはできる。
そうして力を合わせるからこそ、責任感も芽生えた。
自分ひとりが認められればいいんじゃない。
NOAHのために、結依が、リカが、奏が、咲哉が、己の仕事に心血を注いでるの。
わたしは肩の力を抜き、咲哉に胸の内を吐露した。
「本当はね……わたし、あなたの歌ってすごいなって思うの。悪い意味じゃなくって。……だって、歌ってる時のあなた、とても楽しそうだから」
咲哉ったら、音を外そうがお構いなしなのよ? 思いっきりボールを投げるように、気持ちよさそうに歌うの。
「あぁ、こんな歌い方もあるんだなあ……って」
楽譜の通りに正確に音を出す――それしか知らなかったわ、わたし。
でも、その歌い方だけが正しいのなら、歌が下手なひとには、歌う資格さえなくなるでしょう? そんなものはもう『音を楽しむ』音楽じゃない。
ママの歌はわたしより、咲哉に歌ってもらうほうが、いいかもしれないわね。
今は本気でそう思えてしまった。
「ありがとう、杏ちゃん。けど、わたしだって、みんなの足を引っ張りたくはないから」
「だったら練習あるのみよ。さあもう一回、最初から!」
わたしのこれからの歌には、きっと咲哉も必要ね。
ママには悪いけど、わたしはNOAHのみんなで歌える曲がいいわ。
「――杏さんっ!」
ところがレッスンの最中、聡子さんが駆け込んできたの。
「そんなに慌てて、どうしたんですか?」
聡子さんは息を整えつつ、眼鏡越しの視線でわたしを射竦めた。
「落ち着いて聞いてください。お母さん……千夜さんが倒れたそうです」
「――!」
黒い衝撃が雷のようにわたしを打つ。
楽譜が手から滑り落ちたことにも、気付かなかった。
「マ、ママは? 大丈夫なんですかっ?」
「とにかく病院へ! すぐに車をまわしますので」
「わたしも一緒に行くわ!」
不安がわたしの胸を圧迫しつつ浸食していく。
わたしは咲哉と大急ぎでスタジオを出て、聡子さんの車へ飛び乗った。赤信号に何度も焦らされながら、ママが緊急で運び込まれたらしい総合病院を目指す。
病院には先に弟の慎吾が来てた。
「慎吾! ママはっ?」
「姉さん……やばいよ、母さん、すげえ血を吐いたって……!」
血を吐いた? そ、そんなにたくさん……?
「仕事中にトイレ駆け込んでって、そこで……戻ってこないから、同僚のひとが見に行ったら、気を失ってたらしくってさ」
くらっと眩暈がした。本当に倒れそうだったみたいで、咲哉が支えてくれる。
「落ち着いて、咲哉ちゃん。悪いほうに考えちゃだめよ」
「え、ええ……」
不安で押し潰されそうだった。
ママがICU(集中治療室)に担ぎ込まれてから、すでに一時間が過ぎてる。聡子さんは電話のために離れ、慎吾も一旦席を外した。
「俺も父さんに電話してくるよ。連絡がつくか、わかんないけど」
「わかったわ。お願い」
わたしは咲哉と一緒にママの無事を祈る。
明日の新聞に『明松屋千夜、急死』なんて記事が載ったら……どうなるの?
舞台で歌うところ、まだ一度も観てもらってないのに。
「ママが死んじゃったら、わ、わたし……」
「杏ちゃん! 気をしっかり持って!」
緊迫の一時。ICUのドアを見詰めては、渇ききった喉で固唾を飲む。
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