第268話

 咲哉の中学時代の友達ってのが来て、一波乱あったものの、サイン会は終了。アタシは咲哉と一緒にはこぶね荘へ帰り、一足先にお夕飯を平らげる。

 聡子さんもまだ帰ってないから、今夜はレンジでチンしただけのやつね。

「もぐもぐ……。で、杏たちは何やってんの?」

「奏ちゃんと杏ちゃんは楽曲の件で動いてるらしいわ。結依ちゃんは……今日は何の要件だか知らないけど」

「ふぅん」

 ちゃんと結依に謝らなくっちゃ――と思う一方で、今夜のところは結依と会わずに済むことに、アタシはほっとしてた。

『だから待ってってば! まだアタシ、映画に出るなんて言ってないっ!』

『結依が勝手に決めないでよ! こっちはNOAHのことが気掛かりで悩んでるのに、嬉しそうに言ってくれちゃってさあ』

 あんなふうに怒鳴っちゃったんだもん。

 そのくせ、咲哉の昔の馴染みに説教しちゃったりして……。これで素直に謝らなかったら、いよいよ立場がなくなるわ。

 だけど、アタシは映画よりNOAHを取りたいの。

 大野画将の新作には出演したい。でも、それ以上にNOAHの全国ツアーを成功させたいから。結依や咲哉たちと一緒にね。

 お風呂が沸いた頃になって、聡子さんの車が寮へ帰ってくる。

 杏と奏はぐったりした様子で、リビングに鞄を置いた。

「今日も遅くなったわね……。咲哉、リカ、サイン会のほうはどうだったの?」

「こっちは楽なものよ。学校の友達が来てくれたりして……」

「あんた、学校じゃ正体を隠してるんじゃなかった?」

 聡子さんたちのほう、お夕飯は外で済ませてきたわけね。ちょっと損した気もする。

「お風呂、お先にどうぞ。聡子さん」

「いいんですか? それじゃあ、お言葉に甘えて」

 間もなく聡子さんはお風呂へ行き、入れ替わるように結依がやってきた。

「ただいま、咲哉ちゃん。リカちゃんも……」

「う、うん……おかえり」

 アタシと結依の間で微妙な空気が流れる。

 咲哉はアタシを後ろから捕まえ、奏も同じように結依を押さえた。さっさと仲直りしなさいってことね。

「あ……あのさ? 結依。映画のこと、なんだけど……」

「わかってるよ、リカちゃん。さっき井上さんと、そのことで相談してたの」

 ところが結依は早々と朗らかな笑みを取り戻し、まくし立てた。

「リカちゃんが海外に行ったら、ドラマのほうは出演できないでしょ? だから私がリカちゃんの代打に立つことになって――」

 来月はもうひとつ仕事を抱えてたなんて、忘れてたわ。

 杏が苦笑する。

「この忙しい時期に、いくつ引き受けてるのよ? リカらしいけど」

「そ、それは三日で済むやつだから……って、待って! どーいうことよ、それ?」

 唐突かつ強引な成り行きに、アタシは声を荒らげた。

 それでも結依は引かず、アタシを真正面に見据えて、断言するの。

「大野監督の新作なんだよ? リカちゃん。こんなチャンス、二度とないから」

 結依にこそわかって欲しいのに、わかってもらえない。

「NOAHだって今年の夏が正念場でしょ!」

 またもアタシはトーンを上げ、結依に怒鳴り声を浴びせてしまった。

「全国ツアーなのよ? 夏の最後にはアイドル・フェスティバルだって……メンバーが欠けて、戦えると思ってんのっ?」

 その瞬間、結依の表情が張り詰める。

 それでもこっちは止められない。そして。

「そりゃ、アタシは歌もダンスもそんなに上手くないけど……」

「ま、待ちなさいったら、リカ? 言い過ぎ――」

「私の話だって聞いてよッ!」

 杏が止めに入る間もなかった。今度は結依が声を張りあげ、アタシは息を飲む。

「リカちゃんには映画、頑張って欲しいから……キャリアのない私とアイドルごっこなんかしてないで、本気で女優を目指して欲しいから! こう言ってるんだよ!」

 奏も咲哉もセンターの剣幕に気圧され、押し黙るほかなかった。

「ア……アイドルごっこだなんて、アタシ……そんなこと」

 結依はつぶらな瞳に涙を溜めながらも、アタシをまっすぐに見詰める。

「NOAHの活動は今だけでも、女優としての人生はずっと続くんでしょ? だから……ぐすっ、お願いだから、笑ってお見送りさせてよぉ……っ!」

 ついには呂律もまわらなくなった。アタシの前でくずおれ、嗚咽をあげるの。

「ひっく、ぐす……うえぇ」

「結依ちゃん……」

 そんな結依を、咲哉が優しく抱き締めた。

 アタシの胸に罪悪感が、まるで刃物のように突き刺さる。

「で、でも……NOAHが大事な時に、アタシだけ好き勝手できないじゃんっ!」

 居たたまれなくなって、アタシはリビングを飛び出した。階段を駆けあがり、自分の部屋へ逃げ込む。

「なんでわかってくんないのよ! アタシの気持ち!」

 ふかふかのベッドも、今は全然気持ちよくなかった。奏や咲哉の唖然としてた顔を思い出し、ドアに目掛けて枕を投げる。

「アタシのことは誰も慰めてくれないワケっ?」

 こんなの八つ当たりだって、わかってた。子どもの頃、弟と喧嘩した時とまったく同じことしてる今の自分が、たまらなく恥ずかしい。

「アタシは……アタシは、ひぐぅ、全国ツアーに出るんだから……」

 結依と大喧嘩したのに、一緒に?

 後悔と未練とがぐちゃぐちゃになって、アタシを責め苛む。

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