第269話
ひとりですすり泣いてると、少しだけドアが開いた。
「入るわよ。リカ」
そこから遠慮がちに杏が覗き込む。
「入ってこないでってば。バカ杏」
「結依は連れてきてないから。いいでしょう?」
よりによって、杏が来るなんて……。第二ラウンドでも始めるつもりなの?
「どうせお説教に来たんでしょ」
「まさか」
けれども杏は穏やかな物腰で、ベッドの端っこに腰を降ろした。
「そうやって膝を抱えるの、リビングの隅でって話じゃなかったかしら」
「いいのっ。本気でヘコんでるんだから」
さっきまで泣いてたせいか、やけに耳が澄んでる。
「で? お説教するの? しないの?」
「今夜はあなたに何か言える立場じゃないわよ。わたしも」
杏の言葉には自嘲が混じってた。
「あなたたちの喧嘩の原因は今しがた知ったばかりだけど……わたしだって、もしオペラの事業団に誘われでもしたら、きっとリカと同じくらい悩むもの」
言葉の合間で溜息が落ちる。
「なまじ名声があるからいけないのよね。あなたも、わたしも。結依や奏はわたしたちのこと、芸能界の先輩ってふうに思ってる節があるでしょう?」
「……ん」
杏相手に頷くのは悔しいから、『うん』とは答えてやらなかった。
杏はまた自嘲を挟んで、アタシの髪に手を触れる。
「でも実際のところ、アイドルとしては玄武リカも、明松屋杏も、駆け出し程度の力しかないのよ。奏と一緒にお仕事してると、よくそれを痛感させられるわ」
「アタシも……咲哉には勝てない部分、あるかも……」
それはアタシや杏にしかわからない、名前が売れてるからこその無力感だった。
ファンクラブの会員数が一位と二位だからって、何? アタシたちにできるのは、せいぜいコンサートの動員数を稼ぐことだけ。
「そんなところへ千載一遇のチャンスが転がってきたんだもの。仲間を裏切ってでも自分の夢を取るか、NOAHを取るか……難しいわね」
やっとアタシは顔をあげ、杏の目を見た。
「杏でもそんなふうに考えるんだ?」
夢のために海外へ行けば、結依たちを『裏切る』ことになる――。
NOAHにとって今年の夏が大事ってのも、あるわよ? けど、それは根っこじゃないの。アタシを今なお葛藤させるのは、仲間の期待があるから。
高二になってようやく手に入れた友達を、自分の都合で無下にしたくないから。
我慢しようにも、涙が勝手に零れる。
「だから、アタシだけ好き勝手できないって……そーいうことでしょ?」
「そうね。……でも、結依はもっと先の未来を見てるのよ」
アタシの頭を撫でながら、杏は俄かに声を弾ませた。
「春に玲美子さんたちと焼き肉に行ったでしょう? あの時、思ったの。わたしやあなたも、いつか……歌手や女優になったあとも、あんなふうに一緒にいるのかしらって」
杏の夢はオペラ歌手、アタシの夢は映画女優。今は同じNOAHのメンバーでも、いつかは別の道に進むため、別れることになるわ。
「ああやって一緒にお酒を飲む時は、お互い成果を報告したいって思わない?」
「何よ、それ。オバサンくさい」
「玲美子さんが聞いたら、怒るわよ?」
杏の言うこと、アタシにもわからなくはなかった。
今が楽しいからって、馴れあってるだけじゃだめなのよ。NOAHにしがみついて、現状維持に拘っても、いつか必ず終わりは来る。
方舟が新天地へ辿り着くように。
「でも結依は? NOAHがないと、結依には活躍の場が……」
「だからこそ、あの子は自分が重荷になるまいと、リカの背中を押したのよ。本当は誰よりもNOAHの全国ツアーを優先したい、結依がね」
アタシはてのひらに爪が食い込むくらい、こぶしを強く握り締めた。
さっきの結依の言葉が、あたしの胸を締めつける。
『NOAHの活動は今だけでも、女優としての人生はずっと続くんでしょ? だから……ぐすっ、お願いだから、笑ってお見送りさせてよぉ……っ!』
結依は……NOAHのセンターはちゃんと『わかってた』のよ。
玄武リカがどうすべきか。一夏のアイドルとしてじゃなく、一人前の女優として。
「杏ぅ、あ、あたひ……ぐすっ、結依に許してもらえる?」
「わたしもついてってあげるから、大丈夫よ。さあ」
アタシは杏のハンカチで涙を拭き、立ちあがる。
このハンカチ、趣味が悪い。
改めて対面した結依も、アタシと同じくらい目が真っ赤になってた。
もう泣かないつもりだったけど――堪えきれず、アタシはまた嗚咽をぶり返す。
「ごめん、結依……ひっく、アタシ、映画に出る……最高の映画撮って、撮ったら、大急ぎで帰ってくるからあ……っ!」
結依もぼろぼろと大粒の涙を溢れさせた。
「待ってるよ、リカちゃん。わたひっ、ぐす、待っへるからあ!」
友達と一緒にこんなに声をあげて泣いたの、初めてかもしれない。アタシは結依と抱きあい、顔がぐちゃぐちゃになるまで、泣き続けた。
涙と鼻水の区別もつかないほどにね。
☆
そして六月の末、出発の朝が来た。
「こっちよー! リカちゃん」
「はーい!」
アタシはボストンバッグを抱え、空港で蓮華さんと合流する。
見送りにはNOAHのメンバーと、井上社長、聡子さんのほかに矢内さんも駆けつけてくれた。矢内さんがタブレットでカレンダーを開く。
「リカちゃんが戻る頃には、全国ツアーが始まってるだろうね。僕が現地まで送るよ」
「すみません、矢内先輩。足に使ってばかりで……」
「矢内の仕事なんだから、それでいいのよ」
聡子さんを窘めつつ、井上社長はアタシにしっかりと念を押した。
「映画業界に『玄武リカあり』と言わせてやりなさい。期待してるわ」
「はいっ! お仕事取ってきてくれて、ありがと」
NOAHのみんなも前に出てくる。
素っ気ないのは奏ね。
「あたしはあんたに気兼ねなんてしないわよ? こっちはツアーを温めておくだけ」
「ほんとにできんの? 奏のMCなんて杏以下なのに」
「わたしがなんですって?」
杏は眉をぴくぴくさせる。ったく、神経質なんだから。
あと怒りっぽいのも、帰ってくる頃には治ってるといいんだけど。
咲哉は今日もにっこりしてた。
「いってらっしゃい。頑張ってね、ふふっ」
「もっちろん! そっちこそステージ衣装、よろしくぅ」
カメラ関係は咲哉に任せておけば、大丈夫よね。
最後にアタシは結依とハイタッチを交わす。
「じゃあね、リーダー!」
「うんっ! 帰ってきたら、一緒に思いっきり歌おうね!」
また結依と、結依たちと一緒に歌うために。アタシは飛行機で旅立つの。
「行きましょうか。リカちゃん」
「はい、蓮華さん!」
こうしてNOAHの玄武リカは海外へ。
アイドル活動はしばらくお休みして、映画の撮影に専念する。
三週間なんてすぐ……よね?
でも、この時のアタシはまだわかってなかった。
今までの人生でもっとも長い三週間が、始まったんだってこと――。
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