第234話

 VCプロの社長室にて、井上理恵は今夜も急な対応に追われている。その忙しさを見かね、部下の矢内が差し入れにココアを持ってきた。

「ほどほどにしてくださいよー、社長。昨日も残業だったんでしょう?」

「ありがとう。まったく……今回は綾乃のおかげで、ね」

 理恵は残業の手を休め、温かいココアに口をつける。

 常日頃から『社長、社長』と頼りにされる立場だが、こうして労ってもらえると、自分もひとりの人間だということを思い出した。

 仕事が長く続けば疲れもするし、その分の息抜きが必要になる。そんな当たり前のことも忘れて、また没頭していたらしい。

「ふう……」

 気配り上手な矢内は、事情などお見通しといった調子ではにかんだ。

「綾乃ちゃんはマーベラスプロでブイブイ言わせてるみたいですね。聡子ちゃんにもいい刺激になると思いますよ」

「でしょうね。うちでは同期だったわけだし」

 月島聡子と館林綾乃。このふたりのことはVCプロの社員の誰もが憶えている。一時はVCプロ所属のアイドルとして売り出したこともあった。

 理恵はココアに向けて嘆息する。

「聡子って、あちこちでアイドルの男の子に迫られてたでしょう。だから売れると思ったのよ……ああいう純朴で真面目な子が、男の子受けするんじゃないかって」

「アハハ。結果は案の定でしたねぇ」

 残念ながら、聡子と綾乃のユニットは半年で解散。その後間もなく綾乃はVCプロを出て、前々から声が掛かっていたマーベラスプロへ移っていった。

 マーベラスプロの月島社長としては、姪の聡子を社員に迎えたかったのだろう。しかし当の聡子が頑なにそれを拒んだため、相方のほうに目をつけたらしい。

 当然、プライドの高い綾乃には秘密にしてある。

 とはいえ、その件を別にしても、館林綾乃の能力は卓越していた。性格には一癖あるものの、企画の発想力・実現力ともに高く、また交渉のスキルにも長けている。

 理恵自身、ゆくゆくは綾乃もVCプロの社員に、と考えていたほど。

 その綾乃が今回はやらかしてくれた。VCプロのNOAHとマーベラスプロのパティシェルでガチンコ対決をセッティングしてしまったわけで。

 しかも勝ったほうがエンタメランドで舞台出演、とまで話が進んでいる。

 だがエンタメランドと舞台を契約したのはマーベラスプロであって、仮にVCプロのNOAHが出張ることになれば、数々の不都合が生じた。

「面白いことしてくれましたねえ、綾乃ちゃんも」

「私も聡子に聞いて、驚いたわよ……型に嵌まらないタイプなのは相変わらずね」

 それをマーベラスプロの月島社長が二つ返事で承諾したというのだから、関係者の全員が振りまわされている。

「月島さんももう少し現場に理解があったら、助かるんだけど……」

「経営以外のことには基本、頓着がないんでしょうね」

 おまけにエンタメランドは『じゃあNOAHで』と本音を垣間見せる有様で、調整には苦慮させられる羽目になった。

「あの子ったら、パティシェルをダシに使ってまで……はあ」

 どうやら綾乃は今、ライバルの月島聡子と勝負することしか頭にない。九櫛咲哉を新メンバーに迎えて躍進するNOAHの存在が、彼女の闘争心に火をつけたのだろう。

 しかし一方で、パティシェルをアピールするための豪胆な一手とも考えられた。実際、話題のNOAHに絡みたくても絡めないタレントが多い中、パティシェルはNOAHとの競演を果たしつつある。

「矢内。聡子の負担も大きいはずだから、気に掛けてあげてちょうだい」

「もちろんですよ。NOAHにとって大事な時期ですし」

 すでに六月――七月下旬より始まる全国ツアーは、行程もほぼ決定していた。

 そしてツアーのラストを飾るのは、アイドルフェスティバル。NOAHは今年が初めての参加で、世間も大いに注目している。

 アイドルフェスティバルでは観音怜美子、有栖川刹那の率いるSPIRAL、春日部輝喜のパティシェルなど、そうそうたる顔ぶれが一堂に会するはず。

 その中で新進気鋭のNOAHはどこまで戦えるか。

 VCプロの社長として、理恵は不安よりも期待を抱く。

「今後が楽しみね」

 果たしてプロデュースの行く末は――。

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