第224話
「それだけ自分の実力を客観視できて、謙虚になったってことよ」
「あんたの口から『謙虚』なんて言葉が出てくるわけ?」
険悪なムードと早とちりしたらしい伊緒が、おろおろと仲裁に入った。
「し、心境の変化ってやつだよ、ねっ? わたしもバレエ団に入って、今までの自分は何だったんだろ……って、思ったりするもん」
「群舞のパートナーを放ったらかしにして、縮こまってたこともあったかしら」
「う。響子ちゃんの意地悪ぅ……」
春からの生活が一変したのは、あたしだけじゃない。
「ゴールデンウィークのNOAHのコンサートは劇団の公演と被っちゃって、観に行けなかったんだ。ごめんね」
「ううん! そんなこと……三月のライブは来てくれたんだし」
伊緒もまた大きな夢に向かって歩き始めたの。
「こっちこそ、そっちの舞台に行けなくって……出番はあったんでしょ?」
「あはは……入団してまだ日も浅いから、本当にちょっとだけだよ」
響子は正式な団員、伊緒は候補生として、バレエのレッスンに明け暮れてた。あたしが工藤先生のバレエ教室で習うのとは、次元が違うんでしょうね。
「群舞で十分くらい踊っただけで……」
「園部さんも?」
「うん。身体はできてるし、大丈夫だろうって」
群舞っていうのは、大人数で一挙に踊ることよ。
バレエのことはそんなに詳しくないから、響子に聞くのが一番だわ。
「ダンサーも人数には限りがあるし、一回の公演で出番が十分程度じゃ、張り合いがないでしょう? だから後ろで着替えて、次の群舞でも踊ったりするわけ」
「本番中に衣装替えだなんて、慌ただしいんじゃないの?」
「それなりにね。でも、これで出番が増えるんだから」
バレエは大作だと、上演は二時間にも及ぶ。なのに出番が十分だけで終わったら、張り合いがない以前に割に合わないわね。
人手不足という舞台裏の事情もあって、ダンサーはせわしなく駆り出される。おかげで伊緒も新米でありながら、早くも初めての舞台を経験できた、と。
「アガったりしなかった?」
「ほ、ほんの少しだけ……えへへ」
恥ずかしそうに伊緒は頬を染め、笑った。
隣の響子が眉を顰める。
「思ったほど緊張はしてなかったわよ。朱鷺宮さんにあてられたんじゃないかしら」
「……あたしに?」
「あなたがステージで歌ってるの見て、勇気付けられたんですって」
胸の中がくすぐったくなった。
あたしと伊緒、ミュージシャンとバレリーナで目標は違っても、同じ道を歩んでるのかもしれない。あたしはテーブルに両手をつき、前のめりになる。
「つ、次の舞台こそ! 絶対に観に行くからっ!」
「うん。それまでにわたしも、もっと出番がもらえるように頑張るね」
伊緒も健気なガッツポーズで応えてくれた。
離れていても、心は一緒に二人三脚で――なんてね。こんなに誰かに依存しちゃってる自分が、おかしくもあり、少し頼りなくも思える。
しかしふたりだけの世界は、響子の溜息でぶち壊された。
「どっちがアイドルなんだか……」
「い、いいじゃない。あたしは個人的に伊緒を応援してるんだから」
「個人的に、ねぇ」
あたしの愛する伊緒が、不意に瞳を細める。
「ところで……奏ちゃん? 結依ちゃんとキスした件、まだ何も聞いてないんだけど」
「ぎくうっ!」
心臓が口から飛び出しそうになった。伊緒の柔らかな笑みは、かえって怖い。
「別にぃ、咎めるつもりはないし……でもなあ~」
火のついたバクダンに触る気分を味わいつつ、あたしは必死に弁明する。
「ああっあれは! ほんとに事故だったのよ、事故っ!」
「ふぅーん……」
これも結依のせいよ、まったく。ただでさえ杏とリカで三角関係のくせに、こっちまで巻き込まないで欲しいわ。その気がないらしい響子の視線が、ちょっと冷たい。
「そんなことより、自分のことは話さなくていいの? 美園さん」
「あ……そうだね」
響子は息をつくと、本人に代わって淡々と切り出した。
「この子もこの子で、次の壁にぶつかってるのよ。本当に頑張らないと、フェードアウトだってありうるかもしれないわ」
あたしは大きな瞬きで間を繋ぎ、息を飲む。
「伊緒が? 合格枠を増やすくらい評価されてたのに?」
「技術と表現力はね」
伊緒の評価を撤回されたみたいで悔しいけど……バレエにおいては伊緒のこと、響子のほうがよく知ってるのよね。あと、こいつの性格からして、安っぽい気休めでお茶を濁すなんてことは、絶対にしないわ。
それ以上は友達に任せてられないと、伊緒は自ら口を開いた。
「体力がないんだよ、わたし」
その言葉にはっとする。
バレエの花形ことプリマには、たくさんの条件があるわ。ダンスが上手いのは当然、度胸や感受性といった目に見えないものも要求される。
体力もまたそのひとつ。大作だと、二時間並みの舞台になるんだもの。
去年の暮れに観に行った『白鳥の湖』だって、プリマは二幕から四幕まで出ずっぱりだった。それ以上に過酷なのは、実は王子役のほうなんだけど……。
「なるほど。今の伊緒じゃ厳しいわけね」
「だから体力をつけたくって、トレーニングを増やしてるの」
うちの体力バカ(結依と咲哉)のタフネスを伊緒に分けてあげたいわ、ほんと。
響子が肩を竦めがちに笑み崩れる。
「まあ、技術の面では注目の大型新人だし。特に表現力は劇団でも評価が高いから、体力面の不安さえ解消できれば、活躍できるでしょうね」
こいつは伊緒をライバル視しながらも、その実力を認めてるのよ。伊緒がプロの世界へ進んだのって、やっぱり響子の存在が大きいのかもしれなかった。
「ボヤボヤしてたら、あんただって危ないんじゃないの?」
「望むところよ。それくらい張り合いがないと」
「響子ちゃんったら……あはは」
コーヒーが冷めるのを感じつつ、あたしは独り言のようにぼやく。
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