第68話
メイク担当である奏ちゃんを連れて、わたしは更衣室へ。狭いところでほかの参加者も着替えてるから、衣装のスカートがぶつかったりする。
「あ、ごめんなさい」
「いいえ、こちらこそ」
どの子もスタイルがよくて、すらりとした脚線美を誇っていた。収穫祭の村娘をイメージしたらしい華やかな衣装も相まって、バレリーナの品格を醸し出してる。
鏡台を使ってたひとが、更衣室を出ていった。
「こっち空いたわよ。伊緒」
「え? ……あ、うん」
奏ちゃんに促されるまま、わたしはその鏡台につく。
奏ちゃんはてきぱきと、わたしの髪を梳いたり結んだりして、バレリーナ風のヘアスタイルに仕上げてくれた。
「さては伊緒……ここに来て、急に緊張しちゃってるんでしょ?」
図星を突かれ、わたしは赤面する。
さすがに奏ちゃんの目は誤魔化せなかった。ほかのライバルたちに気後れしてるのも、とっくに見透かされてるはず。
「ごめんなさい……」
「はいはい。わかったから、落ち着いて」
克服したつもりのあがり症を、ここでぶり返したくなかった。でも、椅子の下では足が震え、背中にはじわりと汗が滲む。まだ舞台にあがってもいないのに。
小学生の頃のわたしを苦しめた、色んな言葉が脳裏をよぎる。
『小学五年生の天才バレエ少女か』
『頑張ってくれよ、伊緒ちゃん。バレエの明日のために』
あの時はそうだよ、わたし、ちゃんと本物のバレエを踊りたかったの。でも大人たちはバレエじゃないものをバレエと呼んで、わたしに強要しようとした。
ここで踊っても、『わたしのバレエ』は理解してもらえない。認めてもらえないって、わかっちゃったんだよね。
それ以来、わたしは自分のバレエを評価されることを恐れ、逃げまわってた。
けど、今日は審査してもらうために踊らなくちゃいけない。そんな評価欲しさのダンスで、本当に満足できるのかなって……考えだしたら堂々巡り。
奏ちゃんの手がそっとわたしの頬に触れた。
「心配いらないわよ、伊緒。ちょっとやそっとの不安じゃ動じないようにしてあげる」
わたしは顔をあげ、涙ぐむ。
「ほんと……?」
「簡単よ。じっとして」
ほんの一瞬。だけど体感的にははっきりと、わたしたちの唇が重なった。
キスを自覚した時には、頭の天辺まで熱が昇っちゃって、目がまわりそうになる。
「かかっ、かっ、奏ちゃん?」
「あんまり騒いだら、ばれちゃうってば」
両手で口を塞ぎながらも、わたしはキスの名残に浸った。
な……なんで奏ちゃんが、わたしに……キスを……?
胸がどきどきと高鳴る。女の子同士だってこと、今は些細なことにも思えた。
確信犯に違いない奏ちゃんが、勝気なウインクを交えて微笑む。
「こうやってキスしちゃったくらいなんだから、舞台のひとつやふたつ、余裕でしょ」
「いっ、今のは奏ちゃんが、か、勝手にやっただけで……!」
わたしばかり動揺するのが悔しくって、それがまた余計に恥ずかしかった。
と思いきや、奏ちゃんの言葉に胸が軽くなる。
「堂々と踊ればいいのよ。伊緒は伊緒のバレエを、ね」
ほんと……敵わないなあ、奏ちゃんには。
楽曲コンクールでもそうだった。わたしと奏ちゃんは『わたしたちの音楽』を存分に堪能しただけで、その間は審査とか評価とか、微塵も考えなかったもん。
今から踊るダンスを『わたしのバレエ』にできるかどうかも、わたしの心次第。
「ありがとう、奏ちゃん。わたし、今日は本気の全力で頑張るからっ!」
「その意気よ! 未来のプリマさん」
それに――舞台に立っても、ひとりじゃなかった。
わたしの胸の中には、いつだって奏ちゃんがいるんだから。
かくして劇団オーディションは幕を開けた。
二十九番のわたしは一幕も二幕も最後に踊るの。最初のほうは小学生で、高校生は二十番台の後半となっていた。前半のうちは『小学生の部』って感じかなあ。
ここで出てくるような小学生のバレリーナは、もっと小さい頃からバレエをやってる子ばかり。ダンスにたどたどしい印象はあるけど、基本はしっかりと身についてた。
中学生になると佇まいからして違ってくるのは、身長のおかげもある。ダンスに上下の動きが加わって、表現も豊かになった。
田辺さんはよく『背が高すぎるから不利なの』って言ってたっけ……。ヒロインは相手役(王子様とか)より少し低いくらいが理想だから。
けど低いにしろ、高いにしろ、それを活かす方法はあるの。中学生のレベルになると、そのセンスが如実に表れ始めた。
高校生はわたしを含めて四人だけで、プロを目指すには遅いとされる時期に差し掛かってる。だからこそ、自信と実力を兼ね備えたバレリーナが続いた。
「二十九番のかた、舞台にあがってください」
やがて最後のわたし、美園伊緒に順番がまわってくる。
深呼吸をしてから、わたしは静かにステージの中央に立った。客席より少し高さがあるだけでも、みんなの顔がよく見える。
奏ちゃんは客席のほぼ真中にいた。傍らには工藤先生と響子ちゃんの姿も。しかし関係者だけでは埋まりきらず、思った以上に空席が目立つ。
これが公演の大舞台だったら、もっと――。
わたしは目を閉じ、曲を待つとともに『ジゼル』のイメージを膨らませる。
ほら、素朴な村娘が、今にもブドウ畑を横切っていくでしょう?
ジゼルはロイスへの想いを胸に、健気な笑みを弾ませた。
彼に騙されてるなんて、考えもしないわ。
彼への気持ちがあまりにも純粋だから。
お母さんは文句が多いけど、優しいから大好き。
お友達になった貴族のバチルダさんも、わたしの恋を応援してくれる。
いらっしゃい、ロイス! 今日はブドウの収穫祭ね。
わたし、収穫祭の女王様に選ばれちゃったわ。
こっちへ来て、一緒に踊りましょ。
婚約だってしてること、そろそろお母さんにも話さなくっちゃ。
小指の先まで駆使して踊りながら、わたしは、ずっと前から知っていたようにすんなりと理解した。これまでにない手応え、そして爽快感とともに。
これがバレエなんだって。
ダンスがヒロインの心を演じ、ストーリーを紡ぐ。
ジゼルは恋をしました。収穫祭で恋人と一緒に踊りました。それだけじゃ、ただの出来事の羅列でしょ? 大切なのはジゼルが何を思ったのか、どうしたいのか。
心臓が弱くったって、ジゼルは彼と踊りたいの。
その心に曲とダンスが合わさり、物語のワンシーンを情熱的に浮かびあがらせる。
審査員は息を飲んで、わたしのバレエを見守っていた。ほかのお客さんも驚きの色を浮かべながら、わたしのバレエに見入ってる。
レッスン場で踊ってるだけじゃ、こんなの味わえなかった。
ダンスを終えると、奏ちゃんがいの一番に拍手を鳴らす。響子ちゃんや工藤先生、ほかのみんなも続々と拍手に加わった。
舞台の袖ではバレリーナの卵たちが囁きあってる。
「え? 劇団員じゃないの?」
「レベル違いすぎ……でも、すごくよかったよね」
知らないひとに今、わたしのバレエが『評価』されてるんだ。
怖いような、嬉しいような。もちろん、ここにいるみんなはバレエを理解したうえで、わたしのバレエを観てくれてる。
ほんとに上手なのかな? わたしって……。
審査員もしばらく話し込んでて、いつ舞台を降りていいのかわからなかった。
「お疲れ様でした。それでは男子の部に移りますので、みなさんはお食事と、第二幕の準備をお願いします。男子の部は一時間半を予定しており――」
一時過ぎの昼食を経て、劇団オーディションは後半へ。
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