第45話

 こうして初日のレッスンは終わり、あたしは更衣室で着替えてた。

 伊緒は工藤さんに呼び出されて、まだ戻ってきてない。ほかのバレエ仲間にあたしだけ囲まれ、あれこれ質問される羽目になる。

「芸能学校の音楽科? じゃあ、楽器もやってるんだ?」

「子どもの頃からギターをね」

「私もなんか楽器やってればよかったー。伊緒もピアノ、すっごい上手だし」

 美園伊緒の話題になって、聞かずにはいられなかった。

「伊緒って、どうなの?」

 最初は観音玲美子のコンサートへ同行するだけ、だったはずが、今はこうして一緒にバレエ教室に通ってる。それはあたしが伊緒に興味を持ったから。

 こういうことって初めてで……その、同い年の『友達』ってやつ?

 だからこんなふうに、本人がいないところで質問するの、ずるい気はした。

 練習生たちはけろっと答えてくれる。

「うちの教室で一番上手いんじゃない? 悲恋ものだと、ぎくしゃくしちゃうけど」

「――バレエ劇団って知ってる? あそこの一支部みたいなもんなの、うちは。でね、伊緒の同期で上手い子は、もうみんな劇団に移ってったんだけど……」

「伊緒だけ、まだ残ってるんだよね。先生も『この教室で終わらせるのはもったいない』って、よく言ってんのよ」

 あたしは着替えの途中で腕組みした。

「どうして劇団に行かないわけ? 上手いんでしょ?」

 みんなは一様に苦笑を浮かべる。

「あの子、極端なあがり症でさあ……それにほら、男のひとも苦手だから」

「パドドゥができないのよ、伊緒は」

 また専門用語が出てきて、ちんぷんかんぷんだった。

「ごめん、パドドーって?」

「パドドゥ、ね。男のひととペアで踊ることよ。腰とか触られて、持ちあげられたりするからさあ……」

「そもそも度胸が……ね。オーディションも全然受けようとしないもん」

 美園伊緒というバレリーナの事情が、少しずつ見えてくる。

 四歳の頃からバレエを続けてるだけあって、将来を有望視されてるんだわ。素人のあたしだって、さっきの伊緒のダンスには、ほんと圧倒されちゃったもの。

 けれども伊緒は舞台にあがろうとしない。

 すぐに謝り倒す、あの性格でしょ? 相っ当、気が弱いんでしょうね……。

 着替えを済ませた頃になって、ようやく伊緒が戻ってきた。

「奏ちゃん。先生が呼んでるよ」

「あたしを?」

 入れ替わるようにあたしは更衣室を出ようとする。けど、伊緒に後ろから裾を掴まれ、動くに動けなくなってしまった。

 伊緒がいつもの弱気な表情で、ぼそぼそと呟く。

「……ごめんね。なんだか、奏ちゃんを巻き込んじゃったみたいで……」

 思い込みの激しい子のようね。あたしは深呼吸を挟んで、はっきりと念を押す。

「あたし、バレエを習うこと、別に嫌だなんて思ってないから」

 こういうタイプは初めてだから気を遣うわ。

「さっきまで嬉しそうにしてたじゃない、あんた。それにさ、あたしもこれからあんたのこと、振りまわすつもりだもの。だからお相子ってことで」

「う、うん……」

 伊緒はもどかしそうに頷くと、パンダのいるロッカーを開いた。

 あたしの言い方が悪かったのかしら……この子と打ち解けるには、時間が掛かりそう。

「じゃあ、ちょっと行ってくるわね」

 あたしは鞄を肩に掛け、工藤さんのもとを訪れた。

 工藤さんは今日の成果をまとめてるみたい。書類にあたしの名前も見えた。

「お話ってなんですか? 先生」

「帰るところ、悪いわね。実はちょっと……お願いがあって」

 ド素人のあたしに? 工藤先生の意図にはなんとなく想像がつく。

「伊緒のことですか?」

「その通りよ。話が早くて助かるわ」

 工藤さんは溜息をつくと、真剣な面持ちであたしを見据えた。

「実はね、劇団が候補生を選ぶオーディションがあって……今年こそ美園さんを出場させたいのよ。だけどあの子、とことん内気だから、立候補してくれなくってね」

 あたしも音楽関係のオーディションに応募とかしてるから、イメージは沸いた。

「いつ頃ですか? それ」

「年が明けてからよ。まだ大分、先の話なんだけど」

 さっき聞きかじった話によれば、舞台などの実績を買われてスカウトされるってパターンが、バレエでは多いみたい。

 でも伊緒には舞台経験がない、つまり実績らしい実績がなかった。

「今からどっかの舞台に出て、スカウトされるって線はないんですか?」

「難しいわね。そういうのは中学生あたりまでの話だもの」

 しかも伊緒は高校一年生。プロになるには、オーディションで実力を証明するほかなかった。工藤さんはそんな伊緒の才能を惜しんでる。

「実力は申し分ないのよ? でも舞台に立たないことには、評価もされないわ。あの子なら劇団でも充分やっていけるのに……はあ」

 だけど、おかしな話よね。

 それだけバレエが上手なら、普通は『観て欲しい』って思うものじゃない? この教室で一番上手とまで評価されてるのに、控えに甘んじてるなんて。

「本当のこと教えてください、先生。伊緒には何か、舞台に立てなくなるようなきっかけが、あったんじゃないんですか?」

 ストレートに問い詰めると、工藤さんは観念したように嘆息した。

「鋭いわね、朱鷺宮さん……ご名答よ」

 そして言葉の節々に悔恨を滲ませつつ、淡々と語り出す。

「バレエが長らくブームに恵まれてないのは、あなたもわかるでしょう? 有名な少女漫画家がバレエ漫画を描いてた時は、盛りあがったりもしたんだけど……」

 確かにバレエって芸術性の高さとは裏腹に、女子の趣味としてはマイナーだった。ピアノを習ってる子ほどには、人口はいないはずよ。

 当然ダンサーが少なくなっては、舞台も成り立たないわ。先細りの末に劇団は解散、なんて結末もありうる話でしょうね。

 だから積極的にバレエの存在感をアピールして、新規のファンなりダンサーなりを獲得しなくちゃいけないわけ。少女漫画化はまさしく渡りに船だったみたい。

 しかし少女漫画の連載も終わり、バレエのブームは急速に冷え込んでいった。

 そんな折、バレエ界に『天才少女』が現れたのよ。

 それこそが小学生の美園伊緒。

「当時は玄武リカが大人気だったこともあって……ね」

 あたしにもだんだん事情が飲み込めてきた。

 バレエ界は天才少女の伊緒に目をつけ、客寄せパンダに使おうとしたわけね。そのために伊緒には大きな舞台が用意され、大勢のバレエ関係者が注目した。

「一部では、ちょっとした話題くらいにはなったのよ? 小学生ダンサーってふうに」

 いかにもマスコミが好きそうなキャッチフレーズだわ。けど、そういう連中が欲してるのは話題性であって、伊緒の都合なんてお構いなしでしょ?

 大方、伊緒の意志はないがしろにされながら、話のスケールだけがどんどん大きくなってしまった。そこまで話して、工藤さんは声を落とす。

「私たちが浅はかだったのよ。あの子にどれだけプレッシャーを与えるか、考えもしないで……あとは朱鷺宮さんの想像の通りよ」

 結果、小学生の伊緒はプレッシャーに耐えきれず、踊るどころじゃなかった。

 話に聞いたあたしが想像するだけでも、ぞっとしちゃうわね。あの子が舞台に立とうとしないのは、単に内向的で恥ずかしがり屋だからってわけじゃない。

 むしろ恐怖体験よ、そんなの。

 そんな伊緒にチャンスを与えたくって、工藤さんは苦肉の策を弄した。

「美園さんは自分のバレエを評価されることが、とにかく怖いみたいなの。だから……荒療治とは思ったんだけど、VCプロに紹介して、ね」

 真剣な口ぶりからは生徒への愛情がひしひしと伝わってくる。

 だけど、それを言葉通り真に受けるようなあたしじゃなかった。初対面で失礼とは思いつつも、あえて痛いところを突いてやる。

「伊緒を芸能人にして、バレエ人気を……って算段じゃないですよね?」

 工藤さんは『参ったわね』と言いたげに肩を竦めた。

「その気がない、と言っては嘘になるかしら……。VCプロも美園さんの意志を尊重するとは言ってくれてるけど。でもバレエ以外で度胸をつけてくれたら、バレエも、と」

 さすがに無茶よね、これは。

 バレリーナとして舞台に立てない伊緒に、アイドル活動で自信をつけさせよう、っていうのよ? かえって難易度が上がってる気もする。

 ただ、おそらく井上社長は伊緒の卓越した音楽センスを知ってるはず。バレエの技術にしても、このままお蔵入りさせるには、あまりに惜しい逸材だった。

 正直なところ、あたしも伊緒がどこまでやれるか興味ある。

「そこで、朱鷺宮さんには――」

「わかりました。オーディションに出るよう、伊緒に上手いこと言えばいいんですね?」

 先に答えると、工藤さんは目を丸くした。

「ええ。あなたは美園さんが連れてきた、初めての子だし、聞いてくれるかもしれないと思って……。ごめんなさいね、いきなりこんな話で」

 バレエはド素人のあたしをあてにするくらいだもの、藁にも縋る思いってやつね。

 もちろん、あたしは決してお人好しじゃないわよ。自分は自分、他人は他人だって思ってる。失敗するのは、そいつの才能や努力が足りなかったから。

 歌声に自信満々だった頃は、そうやって誰彼構わず突き放してたっけ……。

 でも、今はあたしの才能も失われてしまった。ずっと見下してた『才能のない』側の人間になったのよ。

 そのせいかしら? 伊緒には才能を無駄にして欲しくないって、素直に思えたの。

「いいですよ。でも期待はしないでください」

「ありがとう! 頼りにしてるわ」

 あたしなりに快諾すると、工藤さんは笑みを弾ませる。

 それにあたしとしても、伊緒のバレエを舞台で見てみたかった。

「どんな手を使っても、伊緒をオーディションに出してやりますから。ところで……そのオーディションって、何をやるんですか?」

「うふふっ、さっきの『ジゼル』よ。そうね、資料室のを貸してあげる」

 その後は工藤さんから少しアドバイスをもらって、解散。あたしは伊緒と合流して、VCプロへ寄っていくことに。

「どうだった? 奏ちゃん。初めてのバレエの練習」

「ん~、つまんないってことはなかったわ。意外にいい感じ」

 バレエも思ったよりは続けられそうね。

 しかしこの時のあたしは油断してた。侮ってたのよ、翌日からの筋肉痛を……。

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