第44話

 これからの音楽活動にあたって、美園伊緒と組みたい。

 その要望は意外にもすんなり通った。VCプロの井上社長が二つ返事で了承してくれたのよ。もとより社長には、あたしと伊緒を組ませる意図があったらしいわ。

 だから、伊緒と一緒に観音玲美子のコンサートを見に行かせた、と。多分、伊緒のピアノのセンスも把握してるんでしょうね。

 ただし――ひとつ、おかしな条件をつけられてしまった。

『あなたも伊緒と一緒にバレエを習いなさい。費用は事務所で持つから』

 ロック一辺倒のあたしに、例えば『ジャズも勉強しろ』って言うなら、まだわかるわ。でも、バレエを始めろって、どういうこと……?

 あたしは伊緒のこと、ピアニストのつもりで勧誘したんだけどね。

 とりあえず、本日は未知なるバレエ教室へ。

 こういう習い事って経験ないから(ギターもお母さんに教わったし)、あたし、きょろきょろしてばかりだった。それを伊緒が案内してくれる。

 今日のこの子は機嫌がいいみたい。

「更衣室はこっちだよ」

「本当にスパッツでよかったの?」

 初日ということもあって早めに来たせいか、まだほかの練習生は見当たらなかった。伊緒が更衣室のロッカーを開けると、パンダのマスコットが落ちてくる。

「あ。持って帰るの、また忘れちゃった……」

「パンダ、好きなの?」

「小さい頃、モノクロパンダちゃんってやってたでしょ。あれの影響かなあ」

「パンダって普通はモノクロよね?」

 伊緒がよくしゃべってくれるおかげで、気兼ねはいらなかった。

 初めて会った時はほら、この子がびくびくしちゃってて、会話も弾まなかったのよね。多分、あたしの目つきがちょっと悪いせいもある。

「あたし、バレエはちっとも経験ないのよ。そんなんで大丈夫なわけ?」

「大人になってから始めるひともいるから、心配しないで」

 ……まあ、運動不足の解消にはなるか。

 伊緒がもたもたとジャージに着替え、無地のスカートを腰に巻く。真冬に制服だけじゃ寒いからって、スカートの下にジャージを穿くのを思い出した。

 あたしもやったことあるもの、それ。そしたらアニキに『頼むからやめてくれ。ロマンがない』って泣きつかれたっけ。

「そのスカートは?」

「バレエの舞台衣装って、スカートがついてるでしょ。だから練習でもなるべく、こんなふうにつけるようにしてるの。ほんとは練習もレオタードが一番なんだけどね」

「ふーん」

 つい気の抜けた返事になってしまった。

 決してバレエに関心がないわけじゃないのよ。バレエを始めるんだって、まだ実感できてないっていうの?

練習着のTシャツとスパッツに着替えつつ、あたしは伊緒に尋ねる。

「にしても……あんた、よく芸能事務所に入ったわね。気が弱そうなのに」

「最初はびっくりしたんだよ。芸能事務所なんか紹介されて」

 案の定、この子はアイドルを志してはいなかった。あれよあれよと話が進んで、いつの間にやらVCプロ所属のタレントになっちゃった、と。

「お母さんまで一緒になって、『何事も経験よ』ってふうに……」

「騙されてるんじゃないの? あんた」

 伊緒って内向的で疑い知らずな印象だから、少し心配になってきた。

 これは何か事情がありそうね。

 バレエ教室の先生は井上社長の知り合いだっていうじゃない? この子の母親といい、一介のバレリーナに芸能活動をさせようだなんて……。

 今度は伊緒が遠慮がちに返してくる。

「あのぉ、奏ちゃんはどうしてVCプロへ?」

「ミュージシャンには色々と都合がよかったりするのよ」

 伊緒には一応、ミュージシャンって体で通しておくことにした。そもそもあたし、VCプロでは音響スタッフなのか作曲家なのか、曖昧な立場なのよね。

 社長は朱鷺宮奏を『ミュージシャン』として扱ってるから、これでいいでしょ。

 着替えを済ませたら、伊緒と一緒にレッスン場とやらへ。

 練習場は大きな四角形で、鏡張りの壁際には手すりがついてた。この鏡で姿勢やダンスの出来を確認するんだわ。

「工藤先生! 朱鷺宮奏ちゃん、連れてきましたー」

「あら、ようこそ! 朱鷺宮さん……でいいわね。挨拶が遅れて、ごめんなさい」

 練習場にいた長身の女性は、あたしたちのコーチらしい。にこやかに微笑んで、ド素人のあたしのことも熱烈に迎えてくれる。

「私は工藤よ。バレエの仲間が増えて嬉しいわ。最初のうちは大変かもしれないけど、楽しんでちょうだいね」

「は、はあ……」

 あたし、ちょっと拍子抜けしてしまった。『高校生にもなって今さら?』ってふうに、敬遠でもされるんじゃないかと構えてたから。

 上手く踊れなかったら、ガッカリされちゃったりして。

「伊緒、こちらの工藤先生って、確かプロ志望コースを教えてるんじゃ……」

「そうだよ。でもわたしと一緒のほうがいいって、先生が」

 工藤さんの営業スマイルがふと苦笑いに変わった。

「最近はバレエ人口も少なくなっちゃってね。朱鷺宮さんみたいに高校生で始めてくれるひとがいると、こっちも嬉しいの」

 ああ、そういうことか。伊緒が上機嫌だったのも頷ける。

 バレエって、四歳や五歳のうちから始めないと遅い、というのが通説でしょ。十代になってから始めるのとは、天と地の開きがある。そのへんは音楽も同じね。

 だから単純にひとが少ないのよ。辞める子は多くても、入ってくる子は少ない。

 工藤さんはあたしに右手を差し出してきた。

「美園さんが友達を連れてきたのも、初めてよ。頑張りましょうね!」

「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」

 こういうハキハキした先生って、久しぶりかも。裏表がないっていうのかしら。

 芸能学校の教師だと、教える子と教えない子を分けてんのよね。教えないって決めた子には、とことん淡泊な態度だし、怒ったりすることもなかった。

 生徒もそれを感じ取っちゃうから、ギスギスすることもしばしば。学校を通して応募したはずのオーディションに、エントリーできてなかった、なんてトラブルも聞いたわ。

 あたしは特待生として入学しただけに、色々と教えてもらえたほうだけど……喉を痛めてからは、交流も希薄になった。

「初心者ってことは気にしないでちょうだい。バレエは何より基礎が大事! だからプロ志望の生徒にとっても、朱鷺宮さんはいい刺激になると思うのよ」

「そう言ってもらえるなら、まあ……」

 工藤さんがふむと頷く。

「それにしても、あなた、いい声してるわね」

「……は?」

 あたしは瞬きも忘れて、目を点にした。

 この、男の子みたいに低い声が……いい声……?

「美園さん、準備運動、念入りにやってあげて。任せたわよ」

「はぁーいっ!」

 伊緒にしては朗らかな返事があがる。

 あたしは戸惑いつつも、練習場の隅っこでストレッチを始めた。当然、運動不足のこの身体がぐにゃりと曲がるはずもなく、情けない悲鳴が木霊する。

「むっ無理! もう曲がんないってば!」

「わ、すごく硬い……でも続けてれば、柔らかくなるから。ね?」

「ね? じゃな、ちょっ……ぎゃああああ~っ!」

 練習以前よね。

 あたしは今日、バレエ教室で身体の硬さを痛感した。


 生徒が集まったところで、まずは『バーレッスン』っていうのが始まる。

 壁際の手すりに掴まって、バレエの基礎を徹底的に反復するみたい。ほかの生徒には工藤先生の号令が飛ぶ、飛ぶ。

「無理に脚を上げるんじゃなくって、形を意識しなさい!」

 一方で初心者のあたしには、伊緒が付き添ってくれた。

「これがプリエの基本だよ」

 同じことをあたしがやったら、ただのカニ股になるんだけど?

「ぬっ、ぬぬぬ……」

 爪先を百八十度に開くことは、かろうじてできた。でも、伊緒みたいに美しいラインにはならない。通りかかった工藤先生がそこを教えてくれる。

「もっと付け根から脚全体を外に向けるのよ。足首だけで形を作ろうとしないで」

「え、えぇと」

 見様見真似でやってはみるものの、鏡には無様なあたしが映ってた。前屈みになって、カニ股を決め……爪先で石並べをやったら、こういう姿勢になりそう。

 おかげで、あちこちからフォローされてしまった。

「頑張って~、朱鷺宮さん! 最初はみんな、そんなもんだしさあ」

「そうそう。私も中一で始めた時は、それくらい硬かったから。大丈夫!」

 そ、そうよね? 最初から上手にできるわけがないもの。

 あたしも命懸けてるロックじゃないから……かな? 自分はヘタッピなんだって謙虚に自覚して、レッスンに集中できた。

 一段落したところで、工藤さんがぱんっと手を鳴らす。

「朱鷺宮さんもいることだし……美園さん、ソロで踊ってみましょうか。『ジゼル』の第一幕、見せてあげてちょうだい」

「はいっ!」

 伊緒はレッスン場の中央に立ち、曲を待つ。

 イントロに合わせて、指先がぴくりと動いた。滑らかな足取りでダンスが始まる。伊緒の爪先は流麗な弧を描き、腰の高さで緩やかに静止した。

 小気味よく弾むようなステップが、華奢な身体を宙へと浮きあがらせる。

 滞空時間が長いってだけじゃなかった。着地も跳躍も柔らかくって、まるで雲の上を歩いてるみたいなの。

 伊緒が跳んでるっていうより、風が伊緒を運んでるような――。

 軽やかなダンスが髪を波打たせる。

 その笑顔は無邪気で、瞳は爛々と輝いていた。待ちに待った恋人がやってきて、大喜びで迎えにいくようなイメージだわ。きっと、そう……お花畑を走って。

 やがて伊緒は羽根を休め、小粋な会釈でダンスを終えた。

「はあ、はあ……」

 息を切らせるのも当然、優雅なようで凄まじい運動量だもの。

 みんなが口々に褒め称える。

「さすが伊緒ね! 綺麗だったあ」

「ジゼル、上手すぎ! 衣装着て踊るとこも見たい~」

 素人のあたしだって圧倒された。ジャージとスカートなんていう珍妙な恰好で、こんなにも表現豊かに踊るんだもの。

 工藤先生も伊緒のダンスを褒めちぎった。

「素晴らしかったわ、美園さん! ジゼルの恋心もしっかりと表現できてたわよ」

「えへへ。ありがとうございます」

 ジゼルの……恋?

 そっか、今のは『恋する乙女』のダンスだったのよ。

 井上社長にバレエを勧められた理由が、少しわかった気がした。あたしのロックにはないものを持ってるのが、伊緒のバレエ。

 実際『ジゼル』のお話を知らないあたしでも、伊緒のダンスが恋愛によるものだってことは直感できた。台詞はひとつもなかったのに、表情とダンスだけで、ね。

 そんな伊緒だから、あたしのロックをバラードと解釈できたのかもしれない。

いうなれば『表現力』よ。

歌唱力でもギターのテクニックでもない技術が今、目の前にあるの。

 バレエか……やってみよう、あたしも。バレエにはあたしの音楽を変えてくれるヒントがあるみたいだから。

 社長の思惑通りってのは、ちょっと気に入らないけどね。

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