第42話


     <Io・Misono>


 バーチャル・コンテンツ・プロダクション、通称『VCプロ』。

 バレエで舞台に立てない、意気地なしのわたしが放り込まれたのは、よりにもよって芸能事務所だった。つまり……わたしは駆け出しの『アイドル』ってこと。

 もちろん柄じゃないって、断わったよ?

 でもバレエ教室の先生が、VCプロの社長さんと馴染みだとかで、試しに……って。バレエ自体は続けてもいいってお話だったし、押しきられちゃった。

 高校一年の夏、美園伊緒はアイドルを始めたの。

 とはいえ、新人以前のわたしにお仕事があるはずもない。まだ書類のうえでVCプロに所属してるだけだよ。

 普段はバレエスクールに通って、その帰りにVCプロに寄ってく感じかな。

 社長の井上さんからは『ピアノのブランクを取り戻しておきなさい』とだけ指示されてる。おかげで、音響スタジオでは好きなだけピアノが弾けた。

 お勉強が忙しくなってきたから、ピアノは辞めた体でいたけど……。バレエとはまた異なる、この『音楽』へのアプローチも好きだなあ。

 バレエもピアノもきっかけはお母さん。でもわたし自身、どっちも子どもの頃から息をするみたいにやってるから、今や生活の一部になってた。

 こうやって適度にピアノも弾いてるほうが、わたしらしいかもね。

 そんなことを思いながら、放課後はバレエ教室へ直行する。

 バレエ教室のことは『スクール』って呼ぶ子もいるよ。この工藤先生のバレエ教室は、規模でいったら『中の上』といったところ。将来の団員を育成するようなプロ御用達の教室じゃないけど、劇団とも繋がってるんだって。

 わたしは練習着に着替え、四角形のレッスン場でバレエ仲間と合流する。

「伊緒! 昨夜のオジョキン、見た?」

「見たよ~。面白かったよね」

 レッスンでは『ジャージの上下にスカートだけ巻く』っていう妙ちくりんな恰好が、うちのバレエ教室では定番だった。

 レオタードを着たほうが当然、四肢の動きを正確に把握できるよ? 発表会が近くなると、ちゃんとレオタードで練習してる。

 でも小学五、六年生くらいから、みんなジャージを着るようになって、工藤先生も特に何も言わなかった。わたしも『ジャージにスカート』が当たり前になってる。

 あとはTシャツとスパッツの組み合わせが多いかな。

「ねえ聞いた? 田辺さん、大きな四羽の白鳥、演るんだって!」

「うそっ? でもほんと上手かったもんねえ」

「それって冬の公演の? え……じゃあ『白鳥の湖』なの?」

 この教室はバレエ劇団と関係が深くって、優秀な子は団員の候補生(研究生)として移籍することもあった。昔の仲間が大舞台に立つのは、わたしも嬉しい。

 工藤先生がぱんぱんと両手を鳴らす。

「はいはい、おしゃべりはそこまで! レッスンを始めるわよ」

 わたしたち練習生は一列になって、壁際のバーを掴んだ。

 練習はいつもこの『バーレッスン』から。鏡で自分の動きを確認しつつ、バレエの基礎を徹底的に身体に馴染ませるの。

 この基礎練習がオーディションの一次選考だったりする場合もあるんだよ。こんなの準備運動と思いきや、もう審査は終わってました――なんてふうにね。

 基礎を疎かにしてるようじゃ、舞台では通用しないってこと。

 今日も工藤先生の指導に熱が入る。

「無理に足を上げようとしない! 隣のひとと比較しないでいいから!」

 バレエ教室は本来『褒めて伸ばす』スタイルだから、工藤さんみたいに声を荒らげる先生は珍しかった(お客さん相手にやってるわけだし)。

 工藤先生が教えてるこの時間は、プロのバレリーナを志望してる子が多いってわけ。

 とはいえ、工藤先生もスパルタってほど厳しくなかった。ひとりずつ教える時は物腰も柔らかくなって、丁寧に指導してくれるの。

「志島さんはすぐ腰が動いちゃうのが悪い癖ね。美園さんをお手本にするといいわ」

 わたし、レッスンでは上手に踊れるみたいで、よくお手本扱いされる。

 レッスンでは、ね……。

「美園さん、ちょっと、ひとりでやってみてくれるかしら?」

「はい。わかりました」

 先生の要望もあって、わたしはいつものように得意のバーレッスンを披露した。

 脚は付け根から外に向けて、爪先を百八十度に開く。この状態で膝を曲げるのが、基本のプリエ。この時、上半身やお尻は動かさないようにする。

 重心は真中を意識して……次は爪先を前後に交差させながら、プリエを実践。少しバレエに慣れてれば、誰でもできることだよ。

 先生が満足そうに頷く。

「とてもよろしいわ、美園さん。こういう基本がしっかりしていれば、全体のクオリティも違ってくるものなの。さあ、もう一回、通しでやりましょうか」

 その後もレッスンはつつがなく進行し、ほどよく汗をかいたところで終了となった。友達は早速、ケータイでメールをチェックしてる。

「伊緒~、今日もVCプロってとこ、寄ってくの?」

「うん。ごめんね、忙しくなっちゃって」

 帰り支度をしていると、工藤先生がわたしに声を掛けてきた。

「美園さん、少しいいかしら?」

「は、はい……」

 わたしだけレッスン場に残ることに。

 こういうシチュエーションは初めてじゃなかった。だから、今から工藤先生に言われることも、予想はついてる。

 ほかのみんなが出ていったのを見計らってから、先生は口を開いた。

「あなた、来年こそオーディションに立候補しない?」

 やっぱり。バレエ劇団が候補生を選出する、冬のオーディションのこと。

 大抵は劇団の偉いひとが、そこそこ大きい教室の舞台を見に来て、そこで将来性のある子をスカウトするのが恒例だった。

 でもわたし、ろくに舞台の経験がないの。

 実績がないものだから、評価されるチャンス自体もないんだ。

 そんなわたしのように実績がない子でも、オーディションで好成績を収めれば、正式に劇団の候補生になれる。

 例えばほら、上手なんだけど、通ってる教室が小さかったり……とか。そういった子のためにオーディションは毎年、冬に開催されてた。

 今は八月の下旬だから、まだ半年くらいあるのかな。

「どう? 美園さん。あなたは基本を大事にするから、ダンスも丁寧だし」

 工藤先生は何度もわたしを推してくれた。

 早い子だと、小学生の高学年のうちに候補生になってる。進学や進級に併せて、舞踏科のある専門学校に入ったりもするんだよ。オーディションが受験シーズンと被ってるの、それと関連してるんだって。

 特に優秀な子には留学なんて選択肢もあった。

 すでに高校生のわたしは、かなり出遅れちゃってる。

 けど――わたしにはオーディションを受ける意志がなかった。バレエは大好きでも、大きな舞台で踊るなんて、絶対に無理だから。

「いいんです……バレエは趣味で」

 舞台に立つのが怖いの。足が竦んで、踊るに踊れなくなって……。

 だから、わたしは『趣味』としてバレエを楽しめたら、それでよかった。現にそういうひとはたくさんいて、上手く折り合いをつけてる。

 プロになんてなれなくてもいい。

 真剣に取り組んでるバレエ仲間には、こんなこと言えないけど。

 工藤先生も無理強いはしてこなかった。

「まあまだ時間はあるから、考えておいて。VCプロの井上さんによろしくね」

「はい。それじゃあ失礼します」

 わたしはバレエ教室をあとにして、次のレッスンへ。


 VCプロは小さな事務所だから、音響スタジオは余所を借りてる。わたしはそこでバレエの練習の骨休め程度に、ピアノをちょっとだけ弾いていた。

 工藤先生の薦めもあって、VCプロの一員になってはみたけど……こんな感じでいいのかな? ピアノをまた弾くようになったくらいで、これといった変化はないもん。

「……あれ?」

 今日もピアノを弾こうとしたら、鍵盤に見慣れない楽譜が置いてあった。

 このビートはメタル……ううん、ロックかも。わたしの前にこのスタジオを使ってた誰かが、忘れていっちゃったんだね。

 作曲はわたし、もう長らくやってないなあ。小学生の頃、お母さんの誕生日にちょっとした曲を作って、弾いてあげたくらいで。

 ゼロから作るよりアレンジのほうが得意なんだよ。

「こっちは歌詞……かな」

 楽譜と一緒に書きかけの歌詞もあった。


   眩しい街の中 ひとり佇む

   ショーウインドウに 泣き顔が映った


 なんだか寂しいメッセージ……どことなく自暴自棄な気がする。

 その楽譜を広げ、わたしはピアノと向かいあった。音の並びはそのままに、もっと歌詞に合いそうな別のメロディを探してみる。

 うん……ロックじゃない。

 わたしなら、もっと静かに心に沁みるような――バラードがいいよね。

 誰のものとも知れない曲が、わたしの手でバラードの調べとなる。即興なのに、自分でも驚くほど指が自然に動いて、鍵盤をかき鳴らした。

 演奏を終え、ふうと一息。

「うん。いい感じ」

 楽譜から顔をあげ、手応えを独りごちる。

 その時になって、ようやくわたしは『彼女』の存在に気付いた。

「……え? か、奏ちゃん……?」

 開いたドアの傍に立っていたのは、わたしと同じVCプロ所属の、朱鷺宮奏ちゃん。先月、一緒に観音玲美子のコンサートを見に行って、それきりになってる。

 奏ちゃんは背負ってたギターを降ろし、真剣な表情でわたしに詰め寄ってきた。

「ねえ、それ。わたしの楽譜なんだけど」

「あ……ごめんなさい。もしかして、奏ちゃんの忘れもの?」

 歌詞まで読んじゃったのは、迂闊だったかも。

 奏ちゃんのまっすぐな瞳が、怯えがちなわたしを映し込む。

「なんでバラードにしたの?」

「えぇと……なんとなく、そっちのほうが歌詞の雰囲気に合うかな、って……」

 怒らせちゃったんだ、きっと。

 わたしは急いで荷物をまとめ、逃げようとする。

 でも奏ちゃんはわたしの腕を掴んで、逃がそうとしなかった。

「待ってってば! 怒ってるんじゃないから」

「ほ、ほんと……?」

 わたしはおどおどするばかり。

 子どもの頃から、自分のこういう弱腰な性格が嫌いだった。必要以上にびくついて、誤解するか、されるかして。それが相手を余計に怒らせたこともあった。

 だから奏ちゃんみたいに我の強いタイプの女の子は、苦手なの。

 けれども奏ちゃんは構わず、前のめりになるほどの勢いで、わたしに迫ってくる。

「あたしのロックをバラードに、ねえ……センスは割とよかったし、ピアノもそこそこの腕じゃないの。キーボードは触ったことある?」

 わたしは苦し紛れに『ごめんなさい』を繰り返す。

「ご、ごめんなさい。大事な曲、勝手に変えたりしちゃって」

「謝らなくていいってば。その性格、なおしたほうがいいわよ。それより……」

 初めて奏ちゃんが笑った。

「美園伊緒、よね。どう? あたしとバンド、組んでみない?」

「……え?」

 何を言われたのかな、わたし?

 頭の中には疑問符だけが浮かんでいた。

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