第41話

 わたしが好きなのは『くるみ割り人形』かなあ。

 逆に『ジゼル』は怖いお話だから、ちょっぴり苦手。

「そっか……さっき言ってた『教室』って、バレエ教室のことだったのね」

「うん。小学校に入る前から、ずっと通ってるの」

「へ? 四歳や五歳の小さな身体で、ダンスになるの?」

 奏ちゃんは不思議そうに首を傾げる。

「でもローカルのバレエ教室だって、舞台に出たりはするんでしょ? あんたも」

 当然のようにそう言われ、ぎくりとした。

「……ううん。わたし、出演したことはほとんどなくて……」

 わたしは顔を伏せて口ごもる。

 確かにバレエ教室もお客さんを呼んで、出し物をすることはあるよ。大作のワンシーンを抜粋したりして、規模は小さいなりに構成してね。

 だけど、わたしは四歳の頃からバレエを習っているのに、舞台にあがったことは数えるほどだった。『あの体験』の記憶がわたしを今なお縛りつけてる。

「あ、あがり症なんだ。わたし……」

 舞台に立つのが怖かった。自分のバレエを誰かに評価されるのも怖い。

「なのにずっと続けてるわけ?」

「その……好きだから」

 でも辞めようなんて思ったことは一度もなかったよ。

 バレエを始めたきっかけは、お母さん。お母さんは娘のわたしを教養豊かなレディーに育てるのが夢で、わたしにピアノとバレエのお稽古を勧めたんだ。

 ただ、中学生になる頃にはお勉強も忙しくなってきたから、バレエとピアノのどっちかひとつに、って話になったの。

『なんなら両方辞めてもいいのよ。そうねえ、次はバイオリンとか……』

 とりあえずどっちか続けないことには、新しい習い事を言い渡されそうだった。

 そこでわたしはバレエを選んで、今に至る。

 趣味として続ける分には、お母さんは何も言わないよ。一時期は『プロを目指して頑張りましょう、伊緒』なんてことも言ってたけど……。

 だけどバレエ教室の工藤先生は、何かと出演を勧めてきた。

「あとね、ピアノもやってたの」

「ほんとにっ?」

 ピアノの経歴を付け足したら、奏ちゃんが声を弾ませる。

「あたしも昔からギターやってんのよ。芸能学校の音楽科に通ってて……伊緒はピアノだけ? それって、いつから弾いてるの?」

 急に勢いよくまくしたてられるものだから、わたしは返答に困っちゃった。

「えぇと……娘にはバレエとピアノだって、お母さんが燃えてた時期があって。幼稚園に入る前から、ずっと。ピアノ教室のほうは中一で辞めちゃったけど」

「えー、もったいない! そんな小さい頃からやってんなら、上手いんでしょ?」

 さっきまで素っ気なかったのに、奏ちゃん、ピアノの話題には食いついてきた。根っからのミュージシャンなんだね。

 わたしにとってはバレエも『音楽』なのになあ……。

 そんなふうにお喋りするうち、開演の時間となった。館内の照明が一斉に落ちて、真っ暗な闇の中、緞帳が開いたのかもわからない。

 ざわついていたファンのみんなも、水を打ったように静まり返る。

 そして――わたしたちの目が暗闇に慣れてきたところで、不意に眩しい光が弾けた。舞台の四隅で一斉にスモークがあがり、みんなを驚かせる。

 一瞬のうちにステージは熱い輝きで満たされた。

「飛ばしていくわよ、みんなー! 一曲目は『コードネームはアイツ』!」

 光の洪水の中央で、観音玲美子がマイクを掲げる。

 可憐で勇ましくもあるアイドルの登場に、ファンのボルテージは一気に高まった。みんなが総立ちになって、声援の波を起こす。

「え? た、立つの?」

「そうみたいね」

 わたしたちだけ座ってるわけにもいかなかった。

 前のひとも立ってるんだもん、座ってたら何も見えないし。けど、ふたりしてサイリウムもペンライトも持ってないことに、今になって気付く。

「こういうのってルールとかあるんじゃないの?」

「なんて? 聞こえないってば」

 でも大音量の楽曲とファンの声援に遮られ、会話どころじゃなかった。

 わたしと奏ちゃんは丸腰で立って、光と音の波に飲まれる。ステージの上でアイドルが高らかに呼びかけると、みんなも一斉にシャウトを響かせた。

 さらにステージが輝きを増して、わたしの網膜を真っ白に染める。

 いつしかわたしの胸は高鳴っていた。

 どくん、どくん――と。心そのものが力を得て、身体を支配するかのように。

 ステージを見てるだけで血が騒ぐの。息は苦しいほどなのに、熱いほどなのに、飛翔感に打ちあげられてしまって、もう降りてこられない。

 これが……アイドルのステージ……?

 観音玲美子の息遣いがわたしの呼吸みたいに感じられた。

 ダンスもそう。躍動的な一体感が、わたしに陶酔めいた興奮をもたらす。

 ファンの声援はさながらバックコーラスとなって、観音玲美子の歌によりいっそうの弾みをつけた。光と熱、音とが無限に絡みあって、ひとつの大きなうねりとなる。

 ライブがフィナーレを迎えても、『アンコール!』の声が響き渡った。それを待ってたようにイントロが流れ始め、観音玲美子は意気揚々と笑みを振りまく。

 わたしは立っていることも忘れ、呆然とした。

 多分、隣の奏ちゃんも同じ。

 冒頭のほうで端っこのバックダンサーが転ぶアクシデントはあったけど、そんなの些細なことだったよ。ライブは惜しまれつつも幕を閉じ、わたしたちは五感を取り戻す。

 わたしと奏ちゃんは混雑を避け、時間を置いてから会場をあとにした。ライブの余韻が鮮烈に残ってて、歩くに歩けなかったせいもある。

 夏の空は茜色に染まってた。

 まだ網膜に光の残像が残ってるのかな? 夕焼けがやけに眩しい。

「観音さんのライブ、すごかったね」

「そうね。ラジオで聞いた時は全然、大したことないって思ったのに……」

 奏ちゃんの低い声はさらにトーンを落とした。

「アイドルグループの歌なんて、よく訓練された合唱くらいの出来で、とても聞けたものじゃないんだもの。でも観音玲美子が本物だってことは、認めるわ」

 わたしも今日のライブには驚いてる。

 ううん、驚いたなんて次元じゃないよ。驚愕とか、新発見とか……心を動かされたっていう自覚があるんだもん。きっと本気で『感動』したんだ。

 引っ込み思案のわたしでも、この気持ちは言葉にせずにいられない。

「ほんとはね、わたしも今日はそんなに乗り気じゃなかったんだよ。ドラマをちょっと観るくらいで、芸能人のことはあまり知らないし」

 夏の夕焼けがわたしと奏ちゃんを鮮やかな橙色に染めていく。

「でもね、観音さんのコンサートには夢中になれたの。こんな舞台があるんだって」

 わたしが垣間見たのは、バレエとはまた違った舞台の可能性だったのかも。

 バレエだと、お客さんには静かにしててもらうでしょ? それが舞台に独特の緊張感をもたらして、バレエを一個の作品に昇華させるって――これは先生の受け売りだけど。

 でも今日のコンサートだって、ファンのみんながステージを尊重してた。だからこそ声を張りあげ、観音さんとライブを盛りあげたの。

 ひとりとして、観音さんの歌やダンスを『評価してやる』なんて目はしてなかった。自分もみんなと一緒に楽しむぞっていう、全力投球を感じたんだ。

 そんな舞台なら、わたしも立てるかもしれない。

 わたしが怖がってるだけの場所には、わたしの知らないものがたくさんあるの。それを観音怜美子さんは最高の笑顔で満喫してた。

「だからわたしも、ちょっと頑張ってみようかなって……奏ちゃん?」

 気付いた時には、わたしばっかり一方的に喋ってる。

 奏ちゃんは足を止め、階段の途中で蹲っていた。

「……うぅ」

 何の前触れもなしに嗚咽を漏らすから、わたしはびっくり。

「どっ、どうしたの?」

「あたしだって……あれくらい、歌えたのに……っ!」

 起こそうとしても、奏ちゃんは頑なに動かなかった。その手がケータイの、ギターのストラップを痛そうなくらいに握り締める。

「……返して、返してよぉ……あたしの歌声を返してよぉおおおーーーっ!」

 この時のわたしはまだ、彼女の『声の低さ』には理由があるって、知らなかった。

 声変わりを終えた男の子のように渋い声音。それは朱鷺宮奏という女性ロックシンガーにとって、まさに心を砕くほどの屈辱だったの。


 舞台を恐れるわたし、美園伊緒と。

 歌声をなくした、朱鷺宮奏。

 わたしたちの新しい挑戦が、始まろうとしていた。

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