第37話

「……知っていたのね、あの事件のこと」

 杏さんとリカちゃんは首を傾げ、目を白黒させてる。

「あれを書いたのが、観音さん?」

「事件って、声優時代のアレかな。あんまよく知らないんだけど」

 私は井上さんを見上げ、問いただした。

「根も葉もないデマなんて、無視して、やっちゃえばいいんです。関係ありません」

 井上さんはきっと、アクシデントに見舞われたステージが怖いんだと思う。だから、いつもの大胆な指揮はなりを潜め、守りに入ってしまってる。

「でも、あなたまで……」

 井上さんは言い渋り、許可を出そうとはしなかった。

 すると杏さんが私の右腕にしがみつく。左腕にはリカちゃんも。

「わたしも一緒に出るわよ。リーダーひとりで立たせるわけないでしょう?」

「あたしも同感。コンサートはコンサートで、やっちゃえばいいじゃん」

 私たちの真剣なまなざしが、ひとつに重なる。

 深い溜息のあと、井上さんはどことなく嬉しそうな苦笑を浮かべた。

「……わかったわ。行ってきなさい、結依、杏、リカ」

「ありがとうございます! ……行こう、杏さん、リカちゃん!」

 私たちは三人一緒に楽屋を飛び出す。

 ここまで来たんだもん、やるしかなかったし、やりたかった。通路を走りながら、リカちゃんが覚悟の決まった表情で、私と杏さんに念を押す。

「めちゃめちゃ冷え込んでるわよ、きっと。トークなんかしてる余裕ないと思う」

「なら、初っ端から『あの曲』で行きましょう。二時間繋ぐことはいいから、とにかく盛りあげる方向で」

杏さんの顔つきも引き締まっていた。

 デマで盗作が疑われてる新曲『Rising Dance』こそ、私たちの切り札。

 私は瞳に熱いものを宿しつつ、ステージに急ぐ。

 玲美子さんのステージに偶然放り込まれた時は、ろくに踊れなかったのに、全然悔しくなかった。けど、今はあの時とは違う。私は自分の意志でステージに向かってる。

純粋で貪欲な欲求のために。そこにある快感を求めて。



 空は群青色に染まりつつあった。オレンジ色の夕日は街並みの西に沈んでる。

 ステージはまだライトアップされておらず、大型スクリーンも電源が落ちていた。二千人分の客席のほうも、照明が少なく、お客さんの顔までは見えない。

 舞台の裏に私たちがまわりこんだことには、誰も気付いてないみたいね。

「いつまで待たせんだろーなあ。なんで始まらないんだ?」

「なんかNOAHの、新曲? 盗作だったって、ニュースになってんだけど……」

 会場の空気は疑惑や不満で淀みきっていた。

 リハーサルの時も驚いたけど、高校のグラウンドの二倍は広い。でも怜美子さんのライブよりは……と比較対象を想像しても、緊張は鎮まらなかった。

 バックダンサーがいないため、ステージ自体も広く感じる。おかげで脚が震えた。

 固くなってる私の肩を、杏さんが叩く。

「大丈夫よ、結依。わたしとリカも一緒なんだし」

「あたしたちが上がったら、すぐ曲、流してくれるってさ」

 リカちゃんは現場のスタッフと、出だしの段取りだけ決めてくれた。

 私は声を潜め、ふたりに詫びる。

「杏さん、リカちゃん、ありがと。それから……ごめん」

 井上さんの判断を根拠もなしに拒否して、出てきちゃったんだもの。素人に近い私の独断のほうが、きっと間違ってて、杏さんやリカちゃんを巻き込もうとしてる。

 杏さんもリカちゃんも勝気に笑った。

「謝るのはなしよ? ふふっ、わたしとあなたの仲じゃないの」

「なーんか意味深な言いまわしね……まっ、結依にだけ、いいカッコさせらんないし」

 頼もしい存在感が私の不安を和らげ、勇気づけてくれる。

今さら謝罪するなんて、水臭かったかな。

「練習通りにすればいいのよ」

「杏ってば、わかってないんだから。ねえ、結依?」

 私は強く頷いて、ステージに上がる。

「練習より上手にやろうね、ふたりとも!」

 薄暗いステージの中央で、私たちのシルエットが背中合わせに並んだ。その気配に気付いたらしいお客さんが押し黙り、やがて会場の全体が静まり返っていく。

 開演を報せるアナウンスはなかった。お客さんの反応は薄い。

「え、ほんとに始まるの?」

「メンバーはもう割れてんだけどなあ」

 スポットライトが闇を突き抜け、ステージを眩しいほどに照らした。舞台の四つ角で勢いよく煙が噴くと、後方のスクリーンに鮮明な映像が浮かびあがる。

 私たちのステージは、あたかもデコレーションされた特大のオルゴールのように、輝きを放った。スポットライトが熱くて、目が眩みそう。

 私は右手をかざし、カウントダウンに入った。

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