第33話
私は立ちあがって、嗚咽を漏らしながら、必死に唇をわななかせる。
「わたひには、ひぐっ、何も……」
この悔しさが、惨めさが、少しでも玲美子さんに伝わればよかった。だけど玲美子さんはタイヤキをかじったまま、腕時計に目を留める。
「わたしに偉そうなクチ利いた罰よ、結依ちゃん。今からこの公園、走って一周してきなさい。全力でね」
「な……何ですか? それ」
「いいから。カウントいくわよ、8、7、6……」
説明もなしに秒読みが始まった。
「わかりました。……走ればいいんですよね? 走ればっ!」
半ば自棄になって、私は反抗をやめた。カウントを待たずにスタートを切る。
「こらこら、合図を待ちなさいったら!」
地面を後ろに蹴ると同時に、身体がぐんっと前に出た。スカートだろうと構わず、ランニングコースを一気に駆け抜けていく。
同じコースを走ってるひとを、何人も抜いてやった。
練習着じゃないから走りづらい。でも一周くらい、トップスピードを維持してやる。
これしか取り柄がないんだもの、私は。身体が火照るほど、呼吸はリズムに乗って、酸素を一度に多く取り込む。全身を燃焼させる。
やがて最初のベンチが見えてきた。
怜美子さんは腕時計を見ながら、私を待ってる。
「はい、終了~」
「っはあ! はあ……はぁ」
そのラインを切ってから、私は膝に手をついた。ウォーミングアップもなしにいきなり走ったせいか、苦しい。心臓が暴れてる。
今の走りは、中学の頃の記録を塗り替えたに違いない。
「これでよかったんですか? はあっ、怜美子さん」
怜美子さんは感心するようにタイムを読んだ。
「この公園って、一周が1・5キロくらいでしょう? それがあなたは五分未満」
そんなもの、歌や演技には使えない。何の役にも立たない。
「結依ちゃん、これがあなたの武器よ」
ところが、玲美子さんはにんまりと笑った。
「……私、の?」
「そう。バスケで培ったリズム感があるし、感受性が高いのね、杏ちゃんやリカちゃんの技術もしっかり吸収できてる」
そして私の頭を撫で、言い聞かせるように声の調子を柔らかくする。
「何てったって、いきなりステージで踊っちゃえる、規格外の度胸。それがあれば、いつだって全力で、最高の舞台ができるのよ。こんなふうに」
呆然とする私の前で、怜美子さんは華麗なターンを決めた。人気のない公園の一角で、リズムを取り、『あの曲』を歌いだす。
冷えきった闇の中で 私のパトスが飢えていた
身体じゅうを巡る 生きてる証
その熱さを伝えたくて 暗闇をかき分けた
目が眩むような光の波 私は飲まれてひとつになる
いくらだって踊るわ 月よりも綺麗に、偉そうに
Rising Dance!
「……ってね。これくらい、結依ちゃんにもできるでしょう?」
それは藤堂さんが作曲し、井上さんに贈られた、あのメロディだったの。
「どうして玲美子さんが、その曲を……?」
「さあ? っと、誰かが聴いてたら、まずいわね」
玲美子さんはサングラスをかけなおし、帽子を深めに被った。
このひとはお世辞や気休めを言ってくれるタイプじゃない。だから、私を褒めてくれたのは意外で、奇妙なくらいだった。
私は息が切れていたのも忘れ、玲美子さんを見詰める。
玲美子さんは少し切なそうにはにかんだ。
「面白い話をしてあげるわ。わたしが初めてステージに立った時のこと。わたしが中学生の頃、何の仕事してたか、結依ちゃんは知ってる?」
「歌手……ですよね、確か」
その人差し指が私の額をつっつく。
「ハズレ。声優よ」
ふと私は、マーベラス芸能プロでのボイス収録した時のことを思い出した。スタッフが玲美子さんに、どことなく遠慮してる節があったこと。
「男の子向けの、恋愛ゲームってやつね。ヒロインに声を当ててたのよ。メーカーはそんなに売れないと思ってたらしくって、当時は安く使えるわたしが選ばれたわけ」
玲美子さんの声が、風の音に紛れそうになる。
「でもね、そのゲームはだんだん人気が出てきて、ラジオも始まったわ」
傾きつつある日差しが、私たちの影を細長く伸ばした。玲美子さんの横顔が逆光でオレンジ色に染まり、見づらくなる。
「当時はね、母さんたちに声優の仕事、猛反対されてたんだけど。ゲームの続編が決まったら、頑張るしかないでしょう? そして、ゲームのライブをすることになったの」
私は立ち竦んだまま、耳を澄ましてた。
「そのライブが怜美子さんのスタートだったんですか?」
「……だったら、よかったんだけど」
木枯らしが吹き、怜美子さんのロングヘアをさらうように波打たせる。
「ゲームの続編が、ファンの期待してたのと、違いすぎてたのよ。しかもゲームディレクターは、わたしを、気まずい舞台に置き去りにしてくれたの」
人気ゲームの続編に期待して、ファンは胸を膨らませていたんだわ。全国から熱狂的なファンが集まって、盛りあがったに違いない。
ところが、ファンを怒らせるような真実があって……。
「持ち歌のイントロが流れたからって、歌うどころじゃなかった。わたしは恥を晒す羽目になったわ。しかもその後、ゲームディレクターがわたしに、何て言ったと思う?」
私は押し黙り、かぶりを振った。
急に玲美子さんが剣幕を張って、私の胸ぐらを乱暴に掴みあげる。
「なんで歌わないんだ、馬鹿野郎! 俺のゲームを潰す気か!」
不意打ちで凄まれたせいで、私の身体がびくっと震えた。
「ひ、ひどい……」
今の話のどこを聞いても、怜美子さんに責任なんてない。にもかかわらず、ステージで恥をかかされたうえ、理不尽な八つ当たりまで。
怜美子さんが長い髪を、風任せにせず、自分の手でかきあげる。
「声優生命はそこでおしまい。わたしをプロデュースしてくれてた井上さんが、何度も謝ってくれたわ。『ごめんなさい』って、泣きながらね」
「そう……だったんですか……」
フォローの言葉なんて、ひとつも思い当たらなかった。
でも玲美子さんの表情は吹っ切れてる。
「まっ、おかげでわたしは声優を卒業して、今の道に進めたわけだし……今でもあのライブのこと持ちだして、笑うやつもいるけど、それがどうしたってもんよ」
観音怜美子の軌跡はサクセスストーリーだと思ってた。しかし本当は、私よりも若い頃に、悲惨な目に遭っていて。それをバネにしてるから、玲美子さんは芯が強いの。
「だから、結依ちゃんが羨ましくって。意地悪したくなるのよね」
玲美子さんの人差し指が、私の顎をすくった。
「……私が?」
「だって、初ステージで派手に転んだくせに、ちっとも堪えてないんだもの。これは大先輩が徹底的に教育してあげないと、ってね」
女王様の意地悪な笑みが、今だけはとても優しい。
玲美子さんだって苦難を乗り越えて、前に進んだんだから。まだ何もしていないのに、私が落ち込むには早すぎる。
「結依ちゃん、あなたはどうしたいの?」
具体的なビジョンはなくても、欲求はあった。
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