第32話

 練習が終わったら、今日もひとりで家に帰る。

 冬の日入りが早いせいで、空はとっくに茜色に染まっていた。

「……いつまでこんな調子なのかな」

 中学の頃もバスケットボールで不調に陥ったことはあるけど、次元が違う。

 そもそ中学のバスケ部は、県大会で勝ち進めるほど強くはなかったし、チームメイトもそこまで考えてなかった。単に『楽しいから』やってただけ。

 だけどNOAHの芸能活動は、遊びなんかじゃない。杏さんもリカちゃんも大きな目標を持って、真剣に取り組んでるんだもの。

 私なんかより有望な子は、ほかにいくらでもいるわ。私の前を今も大勢が走ってて、後ろからも大勢が追いかけてくる。

 そのトップに立つ大物女優が、街頭テレビを独占してた。

 怜美子さん。こうして街を歩いてるだけでも、私たちは彼女に会える。あれはクリスマス公演のワンシーンね。

「いいなぁ……」

 映像の中で歌う怜美子さんは、幻想的なほど輝きに満ちていた。

「タイヤキ食べるぅ?」

「……は?」

 突っ立って街頭テレビを見上げていると、怪しい女性に声を掛けられる。

 いくら寒いとはいえ、マフラーとマスクに、サングラス。厚手のコートを羽織って、タイヤキでいっぱいの紙袋を抱えてる。

 私は手を横に振って、そのひとから距離を取ろうとした。

「い、いえ、いらないです。急いでますから」

「ちょっと、ちょっと? 大先輩に向かって、そんなでいいのぉ?」

 すると女性がサングラスを外し、目元を露わにする。それは今も街頭テレビに映っているのと同じ、観音怜美子の顔だった。驚いた拍子に、私の声が大きくなっちゃう。

「れ、怜美子さん? どうしてここに」

「しーっ! わたしが何のために変装してると、思ってるの」

 どうやらこれが怜美子さんの外出スタイルらしい。声を掛けられなかったら、まったく気付かずにすれ違ってたところ。

「黒あんとー、抹茶あん、あとカスタードもあるけど、どれがいい?」

 相変わらずの食いしん坊で、紙袋はぱんぱん。

「私、お腹空いてませんし」

「遠慮なんかしたら、はったおす」

「……いただきます」

 刺激しないうちに、私は怜美子さんに従うことにした。

 街頭テレビの近くには自然公園が広がっていて、今くらいの夕暮れ時には、犬の散歩やランニングのコースとして親しまれてる。

 この寒い季節にベンチで休もう、なんていうひとは少ない。待ち合わせに使ってるひとも今日はいなかった。噴水は静かに、夕焼け色の波紋をたたえてる。

「タイヤキ買いに、マーベラスプロから、こんなところまで来たんですか?」

「まっさか。さっきまでVCプロにいたのよ」

 怜美子さんに続いて、私も同じベンチに腰掛けた。

 怜美子さんがマスクを外し、タイヤキに頭からかじりつく。

「ふぉら、結依ちゃんも。かすはーどへいい?」

「清純派アイドルが食べながら喋らないでくださいよ……」

 冷めないうちに、私もぱくり。カスタードと思いきや、抹茶の味がした。

「抹茶ですよ、これ」

「そお? ごめんごめん」

 それでも焼きたてのタイヤキが美味しいことには、変わりなし。有名人が変装してでも買いに行きたくなるわけよね。香ばしさが食欲をそそる。

 そういえば今日のお昼、残しちゃったんだっけ。

「すごい偶然ですね。ばったり会うなんて」

「このへんで結依ちゃんたちが、よく走り込みやってるって聞いたから」

 怜美子さん、わざわざ私をからかいに来たみたい。

口元にあんこをつけてる横顔は、とても一流の女優のものじゃなかった。私と同じ素人からスタートを切って、大成功を収めたひと。

「あの……怜美子さんって昔、井上さんにプロデュースされてたんですよね。それって、井上社長に素質を見出されてとか、えぇと……なんていうのかな」

「ん? 何が聞きたいのよ」

 緊張しつつ、私は思いきって率直な疑問をぶつけた。

「怜美子さんの昔のこと、聞きたいんです」

 怜美子さんが唇のあんこを薬指で拭き取り、ぺろっと舐める。

「そーねえ……どうしようかしら」

 しかしもったいぶって、簡単にはサクセスストーリーを話してくれそうになかった。

「単に興味があるってわけでもないんでしょう? 何があったの、結依ちゃん」

 このひとはきっと、私が本当のことを白状しない限り、口を開かない。

 それに私自身、どこかで吐き出してしまいたかった。杏さんやリカちゃんには言えないことでも、第三者の怜美子さんになら、まだ話せる。

「私……自信がないんです」

 できるだけ小さな声で、でも玲美子さんには聞こえるだけの声で、私は胸の中にあるものを吐露した。言葉にすると、情けなさと恥ずかしさが込みあげる。

「あら、どうして?」

 私の悩みなんて、超一流の怜美子さんにとっては、ちっぽけなものよね。

 私は俯き、ぎゅっとスカートを握り締める。

「杏さんはお母さんがオペラ歌手だし、リカちゃんだって子どもの頃から芸能界にいたんですよ。でも私だけ、何もなくて……」

 いつか怜美子さんに『ちょっと感化されたくらいで芸能界に来たのね』と茶化されたことがあった。その通りでしかなかったことが、今になって悔しい。

「ふんふん。ふぉれで?」

 怜美子さんは気ままにふたつめのタイヤキをかじってた。

「ふたりの足を引っ張っちゃうんじゃないかって。そんなことばかり、頭の中でぐるぐるして……レッスンにも集中できないんです」

 こんなこと玲美子さんに話したって、どうにもならない。それはわかってる。

 もう私は引導を渡して欲しかったのかもしれなかった。ここで怜美子さんに『あなたには無理よ』と言われたら、諦めるきっかけにできる。

「ちっちゃい悩みね」

 玲美子さんの言葉は辛辣だった。

「何かと思えば、そんなくだらないことで、スランプごっこ?」

「そうですっ! 私、ごっこしかできないんですから!」

 逆撫でされ、むきになってしまう。怒りで一度口が開くと、ずっと溜まっていたものがどんどん言葉になって、溢れだした。自分じゃもう止められない。

「私は怜美子さんとは違うんですから! 怜美子さんはいいじゃないですか、歌も演技も上手で……才能があって! 私なんか、単なる体力バカってだけなのに……」

 視界の底で涙が滲んだ。

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