第10話
私のヤキソバ屋がある中庭とは、校舎を挟んで、反対側にあるのがグラウンド。その中央は簡易な舞台が設けられ、大勢の観客に囲まれていた。
ステージではちょうど、ふたりの男子がデュエットを熱唱してる。私の知ってる曲なんだけど、女性のパートも野太い声になっちゃってるせいで、奇天烈に聴こえちゃう。
そして曲が終わったら、歌い手は適当なお客さんにマイクを渡す。前の出場者が次の出場者を指名していくみたいね。審査員は音楽の先生がやってる。
『63点! 記念品はこちらです、お疲れ様でしたー』
次の歌い手は女の子だった。拍手に押されつつステージに上がって、出だしは噛んじゃったけど、勢いだけで歌を続ける。
どんどん盛りあがっていくステージを、私たちは後ろの列から眺めてた。
杏さんがきょとんとして、目を丸くする。
「……あんなふうに歌うものなの?」
オペラ歌手には信じられない光景かもね。音程を外そうが、歌詞を間違えようが、関係ないもの。メロディだけ口ずさんで誤魔化すのも普通だし。
もちろん、上手いひとがいるほうが盛りあがるけど。
「カラオケですから、みんな、こんなもんですよ」
「一度も行ったことないのよ、それ」
変装用の眼鏡越しに、杏さんの瞳は騒々しいテージを見詰めていた。
あとからあとからお客さんが見物にやってきて、私たちは後ろにさがれず、徐々に前へと押し込まれていく。
やがて女の子が歌い終わり、マイクを客席の前方に放り込もうとした。ところが司会がそれを制し、高らかに提案する。
『次は後ろのほうの方にも歌っていただきましょう!』
『えぇと……じゃあ、そっちのほうの、帽子と眼鏡の女子! お願いしまーす』
帽子と眼鏡、という記号は今の杏さんにドンピシャだった。ほかに該当する人間はおらず、杏さんが慌てて私の背中に隠れちゃう。
「も、もしかして、わたし……?」
お祭りムードのお客さんたちに急かされ、私も一緒に舞台へと押された。
マイクを渡されたら、ステージに上がらなきゃいけない。杏さんもそれを察し、必死で私の腕にしがみつく。
「あのっ、私! 私が代わりに歌いますから!」
「それでは一緒にどうぞー」
私の代案は呆気なく却下されてしまった。
ステージに上がったものの、杏さんはマイクを握って硬直する。その顔は青ざめ、今にも瞳から涙が零れそうになっていた。だけど私以外は誰も気付いてない。
曲はランダムで選出され、観音怜美子の新曲が流れ始めた。お客さんは興奮し、手拍子と拍手の区別もつかない。
杏さんの手足ががくがくと震える。
「む、無理よ……本当にわたし、ゆ、結依、お願いっ!」
「大丈夫です。任せてください」
これだけみんなが盛りあがっている状況では、辞退することもできなかった。私は顔面蒼白の杏さんからマイクを受け取り、大きく息を吸い込む。
そうよ、私が何とかしなくちゃ!
歌いだしから勢いをつけ、うろ覚えの歌詞をマイクにぶつけまくる。
お腹からの大声が響き渡った。我ながら下手くそだけど、手拍子は止まらない。
すぐ隣では杏さんが自分の唇をなぞり、戸惑ってる。
こうやって歌えたら、楽しいんだけどな。
盛りあがってきたのは、私の実力じゃなくって、選曲のおかげだった。観音怜美子の新曲だったら、誰だって知ってるから、客席からバックコーラスが入るほど。
ところが私、サビの寸前で派手に噎せてしまった。
「けほっ、ごほっ!」
反射的にマイクから顔を背け、咳き込む。
なのに歌詞は続いた。鍵盤が奏でるように凛とした、綺麗な歌声で。
「おねがいかみさま、わたしのわがままにつきあって――」
私の隣で、杏さんが唇を動かしてる。
歌声の質が一変したことに、お客さんも気付き始めた。一度は弱まった手拍子が、また賑やかに再開される。
「この子、すっごいキレーな声じゃない?」
「上手いよ! メチャクチャ上手い!」
杏さんは顔を赤くしつつ、私の手をぎゅっと握ってきた。さっきまで震えていたのが嘘みたいに、力が強くて、こっちが痺れそうになる。
せっかくの美声を無駄にしたくなくって、私はマイクから少し距離を取った。杏さんの声が歌詞を読みあげるだけで、悩ましいほどの旋律になるの。
歌い終わった時、杏さんは肩で息をしてた。
「はあっ、はあ……」
体温が一気に上昇しちゃったのか帽子を脱いで、ロングヘアを波打たせる。
盛大な拍手が巻き起こった。
「ちゃんと歌えてましたよ、杏さん!」
ステージの上で、私のマイクを杏さんに預け、拍手する。
「……ウソ、わたし……レッスンじゃ歌えなかった、のに……?」
杏さん自身、驚きを通り越して、半ば呆然としていた。不意に嗚咽を零すものだから、私もほかのみんなもぎょっとする。
「どうして? あんな簡単に、声が出て……信じられないの。絶対、もう前みたいに歌えないんだって思ってたのに」
「ええっと、これはその! ほんと、たっ、大したことじゃないんです!」
私は前に出て、ぶんぶんと両手を振りまわした。
眼鏡を外して涙を拭く、杏さん。それを見て、お客さんが勘付いてしまった。
「なあ、あの子って……歌手の明松屋杏じゃないか?」
明松屋杏の名前が一気に伝播していく。
「ほんとだ、明松屋杏!」
「なんで、なんで? サプライズってこと?」
これはまずい。会場全体の一時的なトーンダウンは、大騒ぎの前兆を思わせた。
「ちょっとちょっとぉ! ずるいじゃないのぉー」
杏さんは泣いて、私はおろおろするステージへと、ひとりの女の子が軽やかに登ってくる。彼女はスクエアのサングラスをずらしつつ、私をねめつけた。
「リ、リカちゃんっ?」
その人物の名前が、口をついて出てしまう。
明松屋杏に続いて、玄武リカまでステージへ。私は青ざめ、表情筋を引き攣らせた。
そんな私の事情に構わず、リカちゃんが不機嫌そうにずかずかと迫ってくる。
「正門のところで待ってたのにさ。あたし放って、杏と遊んでたんだ? ケータイ鳴らしても、ぜんっぜん出てくんないしさぁ」
「ま、待って? リカちゃんは二時からでしょ? まだ一時過ぎ……」
「え? そうだっけ?」
時間を間違えて、待ち惚けになってたみたい。
ハイセンスなリカちゃんの印象は強烈で、否が応にも周囲の視線を惹きつけた。お客さんたちがリカちゃんに注目し、その正体を暴いてしまう。
「リカって……あの子も芸能人?」
「わかった! 天才子役の玄武リカよ!」
玄武リカの名前が決定的な起爆剤となり、大歓声が沸いた。司会も興奮気味にマイクを握り締め、力いっぱい宣言する。
『みなさん! 明松屋杏と玄武リカです! 本物が来てます!』
リカちゃんは平然と笑って、みんなに手を振った。
「ばれちゃった? まあいっか、ども、玄武リカでーす」
真っ青になりながら、私は杏さんの手を引き、ステージからの脱走を試みる。
「リカちゃん、ごめん! ここお願い!」
「へ? ちょっと、結依ってば?」
かくして文化祭は大騒ぎになってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。