第9話
人ごみに紛れてから、改めて杏さんを歓迎しちゃう。
「来てくれたんですね、杏さん。都合がつかないって聞いてましたけど」
「え、ええ。気分転換になりそうだし……あの子はいないの?」
あの子って、リカちゃんのことかな。杏さんとリカちゃんってタイプが違うせいか、相性もあまりよくないみたい。
「リカちゃんなら、あと一時間くらいで来ますよ」
「あ、いいのよ。聞いてみただけだし」
ユニットの件はさておき、あとでリカちゃんとも合流して、関係を解きほぐすきっかけにするのもいいかもしれない。
杏さんが頬を染めつつ、私の横顔を覗き込んできた。
「それより、手……」
「あっ、ごめんなさい! 引っ張っちゃって」
私は繋いだままの手を離し、はぐらかす。
「さっきの友達、芸能人に詳しいんです。杏さんが気付かれるんじゃないかって」
「杏なんて名前も、よくあるわよ。……結依はお仕事、秘密にしてるのね」
自分の学校に杏さんがいることが、妙に嬉しくて、こそばゆかった。
杏さんは今、帽子と眼鏡で巧みに変装してる。その正体がオペラ歌手の明松屋杏だってこと、知ってるのは私だけ。
杏さんが有名人だから、嬉しい? そういう優越感もある。
でも、それだけじゃない。杏さんを文化祭に呼べるくらいになった、そのことが、私にとって大きな喜びとなっていた。
「なんだか縁日みたいね。あっちのはヨーヨー釣り?」
「まあ縁日ですよね、ぶっちゃけ」
隣を歩きながら、杏さんはお祭りを珍しそうに眺めてる。
「わたし、学校の文化祭って初めてなの。いつも仕事が入ったりするから」
高校の文化祭なんて、芸能人には物足りないものだって、思ってた。だけど杏さんの瞳は眼鏡越しにきらきらしてる。
お仕事がないから、来てくれた……のかな。
明松屋杏の不調については、私もある程度は把握してるつもり。以前のように歌えなくなった今、杏さんへのオファーも滞っているのは想像に難くなかった。
「見たいところあったら、言ってください。案内しますよ」
「あ、いいから。見てるだけで満足だし」
杏さんは興味こそ示しても、出店を覗き込むことまでしない。それもやはり『遊ぶ気分にはなれない』という気持ちの表れのようだった。
「えぇと……じゃあ美術部の展示とか、どうですか? 写真部もありますよ」
「なら、それにしましょ」
私は杏さんを連れて、校舎の中へ。
校舎のほうも華やかに飾りつけられ、大勢のお客さんでごった返しになっていた。最初は出し物の観賞に遠慮がちだった杏さんも、だんだんと順応していく。
とりわけ工芸部の展示が気に入ったみたい。手製のティーセットやランタンの数々に、杏さんの瞳が輝きを放つ。
「すごいわね! あ、こっちのカップも可愛い!」
小物が好きなのかな? 一緒にお買い物に行ったら、楽しそう。
杏さんはふと、聖歌隊のミニチュアに目を留めた。台座はオルゴールになっていて、ネジをまわすと、短い旋律のループを奏でだす。
その曲に合わせて、小さな聖歌隊がぴょこぴょこと動いた。
「……ほんと、よくできてるわ」
ところがコミカルな人形の動きとは対照的に、杏さんの表情が沈んでいく。
「杏さん? あの……」
「あ、ごめんなさい。ちょっと……歌のことでね」
声のトーンも急に落ちてしまった。
ボイストレーニングはあれからも『ドレミファソラシド』を延々と繰り返すだけ。スランプの深みに嵌まってることは、私も知ってる。
もともと杏さんは、お母さんと同じオペラ歌手の先生に教わってたらしい。練習の場所も収録スタジオなんかじゃなくて、最新の設備が揃ってるピアノ教室だったとか。
突っ込んだことを聞いちゃっても、いいのかな……。
素人の私が聞いたところで、何の力にもなれない。でも杏さんの苦しみを見て見ぬふりするくらいなら、お節介のひとつでも焼いて、怒られるほうがましに思えた。
「よかったら話してくれませんか? ほら、その、誰かに話すだけでも楽になれることってありますし。私、ちゃんと秘密にしますから」
杏さんはオルゴールに視線を落としつつ、細々と呟いた。
「そうね。歌えなくなったきっかけは……やっぱりあの言葉かしら」
曲が止まると、聖歌隊の人形も動かなくなる。
「歌の先生がね、言ったの。『あなたは綺麗な声で歌うことしか考えていない』『喜怒哀楽をまったく歌にできてない』って。それで、自信がなくなっちゃって……」
聞いてみても、知識も技術も乏しい私には、全部はわからない。
「知ってるのよ、わたし。わたしの歌が、オペラ界では問題外ってこと。でも両親がプロだからって、甘えてたのかしらね」
杏さん、歌にはとことん一途なんだわ。
真剣で、ストイックで、一切の妥協を許さない。
だけど今は歌うことに疑問を抱いたまま、いたずらに練習量を増やし、悩みが堂々巡りになってしまってる。練習に身が入ってないのは、私から見ても一目瞭然だもの。
「歌おうとしてもね、頭がいっぱいになっちゃって、声が出ないのよ。感情表現ってなんだろうとか、失望されたらどうしよう、とか」
杏さんは自嘲の笑みを綻ばせた。
「ほんとは今日もレッスン入れてたんだけど、キャンセルして来ちゃったの」
事務所のスタッフも、明松屋杏はもう引退するんじゃないかって、危惧してる。
VCプロに加わったのも、杏さん自身、環境を変えたい気持ちがあったんだろうな。先生のもとでは練習できないから、スタジオを借りて、延命的に続けてる。
あんなに綺麗な声が出せるのに……。
杏さんの悩みに比べたら、私の体験談なんて些細なものかもしれない。それでも私は杏さんを元気づけたくて、ううん、杏さんの歌を聴いてみたかった。
「あ、あの、杏さん。私もそういう経験あるんです」
私は背筋を伸ばし、シュートのポーズを取る。
「中学の時、バスケやってて。私、背が低いから、すばしっこさとかパスの正確さで勝負してたんですけど。シュートが全然入らなくなった時期があるんです」
「……どうして?」
俯いていた杏さんが、私を見上げる。
「それが、その……自分でもよくわからなかったんです。いつの間にか、また入るようになって、気にならなくなっちゃいましたし」
杏さんの人差し指が、踊らなくなった聖歌隊を小突いた。
「きっとわたしの考えすぎなのよね。なんていうか、子どもの頃から神経質で」
「すみません。何もいいこと言えなくて」
「謝るのはわたしのほうよ。気を遣わせちゃって」
気を遣ってるのは、むしろ杏さんのほうだわ。お互いの配慮がかえって言葉数を少なくして、気まずい空気を停滞させる。
とにかく杏さんの意識を聖歌隊のオルゴールから離さなくっちゃ。
「つ、次は美術部に行きませんか? 部員に友達もいて――」
ところが私が口を開いたタイミングで、放送が割り込む。
『野外ステージにて、のど自慢大会を開催します! 豪華景品も用意しておりますので、みなさん、ふるってご参加くださーい!』
よりによって、カラオケ大会の呼びかけだなんて……。私は絶句してしまう。
しかし杏さんは無理のない笑顔を作った。
「行ってみましょ。のど自慢だけ避けるのも、何だか癪だし」
「……いいんですか?」
「聴くのが耐えられないってことはないもの」
本当にいいのかな? 戸惑いつつ、私は杏さんと一緒に来た道を戻ってく。
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