第5話
今から何をするんだろ?
「もしかして、歌唱力のレッスンは初めて?」
きょろきょろとして落ち着かないのが、いかにも素人臭かったみたい。
「はい。カラオケくらいなら経験ありますけど……」
「カラオケ、ね……」
明松屋さんの呟きには、どことなく含みがあった。
「初めてじゃわからないことだらけでしょ。今日は見学してて」
「はあ……ありがとうございます」
頭を垂れる私に向かって、明松屋さんが人差し指を立てる。
「それから、わたしのことは『杏』でいいわ。わたしもあなたのこと、『みさき』って呼び捨てにしちゃうでしょうし」
「御前は苗字なんですよ。名前のほうは結依です」
「あら、ごめんなさい。じゃあ、結依ね」
私の名前って、初対面のひとにはやっぱり難しいらしい。でも杏さんの『明松屋』っていう苗字も珍しいと思う。
ひとまず警戒されなくてよかった。杏さんとは充分に会話が成り立つ。
私よりひとつ年上だから、高二だっけ? 親近感も芽生えてきて、私はほっと胸を撫でおろした。几帳面で優しい先輩って感じ、かな。
杏さんがスタッフに一礼し、収録用の小部屋に入っていく。
『マイクの調整、お願いします。あー、あー、あー』
スタッフは音量の調整や録音の準備をしてるみたい。でもこれ、歌の練習っていうのとは違うような気もした。
音楽室でピアノに合わせて、っていうのが一般的じゃない?
それともプロはこういうふうに練習するのが普通とか?
そのあたりも込みで今日は『見学してて』ということなんだと、私はひとりで納得していた。杏さんは音響スタッフと、ガラス越しにヘッドフォンでやり取りしてる。
「始めるよ、杏ちゃん。もっとリラックスして」
『は、はい……』
マイクの前に立った杏さんは、少し緊張している様子だった。
私が見ているせい? いやいや、杏さんくらいの歌手なら、大舞台で歌ったことだってあるはずだし。緊張しちゃって声が出ない、なんてこと、あるわけがない。
杏さんの唇が、綺麗な音色でドレミファソラシドを奏で始める。
調律されたピアノのような正確さに、私はすんなりと聴き入ってしまった。歌じゃないからこそ、声の質だってありのままに聞き取れる。
目を閉じると、私が鍵盤を左から順になぞってるような錯覚さえした。ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド……と、音符が五本の線を半分ずつ登っていく。
それは4オクターブに留まらず、5オクターブを越えたところで、やっとド、シ、ラ、ソ……と折り返した。
ピアノだった音色が今度は弦楽器のようになる。音そのものが澄んでいて、ボリュームが小さくなっても、印象的に耳に響く。
このひと、本当に楽器の音を声で再現できるんだわ……。
ドレミファソラシドの一節に、こんなに深く感じ入ったこと、ない。
「じゃあ、曲入れるよ」
この声で歌ったら、どうなっちゃうの?
早く聴きたくて、私は前奏さえ煩わしく思ってしまった。
けれども杏さんの歌声はなかなか聴こえてこない。冒頭に息継ぎがあった程度で、歌声の抜けた曲だけが延々と流れ続ける。
「……すみません。やっぱり、発声練習を重点的にお願いします……」
「オーケー。気にしないでいいからね、楽に行こう」
曲は途切れ、最初の発生練習に戻ってしまった。しかしさっきのドレミファソラシドほどは、声に弾みがついていない。
杏さん、どうして……?
歌詞に入る直前、大きく息を吸い込むところまでは、順調だったはずなのに。杏さんは歌うことを、まるで諦めるようにやめてしまった。
マイクの前で消沈し、俯いて。声もだんだん小さくなっていく。
スタッフらが一旦ヘッドフォンを外した。
「やっぱ、うちじゃ練習にならないんじゃない? 専門の先生がいるんでしょ?」
「メンタルなアレを丸投げされても、なあ……こっちはギャラ貰ってるからいいけど、娘さんに無駄遣いさせて、ご家族もどう思ってんだろうね」
ぎこちない雰囲気で練習を再開し、三十分。見学してる私が驚くようなシーンもなく、レッスンはブツ切りで休憩となった。
「あー、杏ちゃん? 待ってる子もいるし、今日はもうこれくらいで」
『いえ、まだできます! もう一度お願いします!』
「たまには友達と寄り道でもして、さ。焦ってもいいことないよ」
一向に話が見えず、私はきょとんとするばかり。
真顔でいる私をスタッフが見つけ、まずそうに口元を押さえた。
「あ……っと、キミ、知らなかった? 杏ちゃんに悪いことしちゃったかな」
明松屋杏は歌おうにも歌えない、みたいだわ。
声帯炎が治ってないとか? でも声自体は綺麗に出てたし……。
杏さんがこっちに戻ってきても、重苦しい空気があって、私からは切り出せない。スタッフは何かを察したように退室し、私と杏さんだけが残された。
「ごめんなさい、あまり参考にならなくて」
杏さんが自嘲めいた笑みを浮かべる。
「失望したでしょ」
「そんな……あのっ、すごく綺麗な声で、びっくりしました」
本当のことを言ったはずなのに、私の声は上擦った。初対面の相手の、おそらくデリケートな部分に踏み込めるほど、私は無神経じゃない。
でも妙に気を遣いすぎるのも、それはそれで失礼かもしれない。
「気にしないで、結依」
そんな私の当惑を、きっと杏さんは見抜いていた。きっと私と同じように気をまわしたひとが、今までにもいたんだろうな。
「楽器の声真似ができても、歌にはならない……できないのよ、わたし」
杏さんは壁にもたれ、疲れたようにはにかんだ。
「もう半年くらい、ずっとこんな調子なの。歌うことは好きなのに、歌おうとしたら、声が急に出なくなっちゃって……」
咽を痛めた、といった理由じゃなさそう。発声練習は非の打ちどころがなかったし、今だって滑舌はいいもの。
「……あの、何かあったんですか?」
「特に何かが、ってわけじゃないの。いつの間にか……色々参っちゃったみたいで」
杏さんは私に聞かせるためではなく、独白のように語ってくれる。
「だからね、わたし、ユニット組んでる余裕なんてないのよ。歌えるくせに歌えない子と一緒だなんて、あなたも迷惑でしょう? 社長にもちゃんと話しておくから」
そして改めて、今度は理由もつけて、ユニットの件を断った。
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