5

「言葉を書く者としての覚悟が在るか」

 バン! と大きな音。穂坂は飛び跳ねるように驚いて、音がした方を見た。樋川が、穂坂の机になにかを叩きつけたところだった。穂坂は目をしぱしぱさせて樋川を見る。樋川は満足そうに、ニィと笑った。

「変わったよ、運命」

「え」

 樋川は叩きつけたものをトンと指差した。どうやらまた古そうな本らしい。おずおずと手を伸ばして見てみると、そこには「緒月源心全集補遺」の文字。

「緒月の戦後の作品だ」

 穂坂はがばりと樋川を見、また本に向き直る。そして手に取って、めくった。穂坂は目頭が熱くなるのを感じた。自分の知らない作品が、そこには載っていた。

「生きてた!」

 穂坂はばらばらとページをめくった。めくるめくるどのページにも、自分の知らない物語がある。宙に浮いて眺めていた話とは、違う話が載っている。じわり、眼球を水分が覆う。穂坂は顔を上げて樋川へ向いた。

「昨日見た夢で、緒月さん怪我してて、もう駄目かと思いました。でも、」

 穂坂は目尻をぐいと強くこすって、それから本の表紙をなぞった。

「そっか、生きてたんだ」

 本をつかむ手に力が入る。そのずしりとした本の重さが、緒月のいのちの証であった。樋川はペン立てに入っていた万年筆を手に取る。まさかこれ一本に、ここまで心を動かされることがあろうとは。何の気なしに穂坂に買ってやった時にはゆめゆめ思わなかったものだ。今にも涙を零そうとする穂坂の頭を、樋川は万年筆で軽く叩いた。

「いたっ、」

「まだだよ」

 樋川は穂坂の肩に肘を載せて本を奪い取る。そうしてぱらぱらと捲って、穂坂に寄こした。

「緒月が戦後、一篇だけエッセイを書いてるんだ。他はみんな小説なのにさ」

 穂坂は目を見張った。その末文には、「そも人間に問う、言葉を書く者としての覚悟が在るか」。

「これ、さっきの」

 穂坂は顔を上げる。肘を離した樋川は、まじりけのないまっすぐな目で穂坂を見ていた。

「あんたには、在るんだろ?」

 穂坂の背筋が、自然と伸びる。

「私の問いの答えは出た?」

 途端に乾いた口をこわごわと動かして、穂坂は声を出す。

「私ずっと考えてました。まだ、うまく言葉に出来ません。なんと言ったらいいか、でも」

 弱腰な言葉尻を、樋川は微笑んで拾って待つ。別に心配しちゃいない。穂坂は樋川から少しも目を逸らそうとしなかった。

「私はやっぱり、ジャーナリストになりたいです」

 もう下っ端の顔ではなかった。自ら進んで暗雲を搔き分けて行けるような、そんな顔だ。

「へえ、何の心境の変化」

 机に寄りかかって樋川は穂坂を覗く。ショートヘアが僅かに揺れて艶がさらりと揺れたことに、穂坂は少しだけ体が軽くなった心地がする。

「過去って、樋川さん言ったじゃないですか」

 樋川は頷く。穂坂がどんな経緯で記者を志したのか、樋川は知っている。

「だからもう一度向き合ったんです。だってそこが原点だったから」

 穂坂の口角を引き延ばしたような、いたずらな笑い方には既視感があった。

「記者に場所も媒体も関係ない、んでしょ? 樋川記者」

 それは穂坂と初めて会ったとき、樋川自身がやってみせた笑い方であった。樋川は目を細めて、腕を組む。

「ふぅん、そんな生意気な穂坂ちゃんにビッグニュースだけど」

 そうしてずい、と穂坂へ顔を近づけた。

「前の職場にあんたの記事送ったら、是非会って話したいってさ」

「え!?」

 一転、穂坂は出目金みたいな大きな目をする。たくましくなっても所詮はひよっこ。だからこそ伸びしろに思いを馳せるというものだ。

「善は急げ、立っている者は親でも使え」

「……使えるコネは先輩でも使え?」

「社長でも、総理大臣でもだ」

 歯を見せて笑う樋川に、穂坂は丸くなった目を戻せなかった。分からない人だ。結局自分はこの先輩のことを何も知らないのだった。それに、今日はやけによく笑う。

「なに、コネなんて姑息な手だって?」

 穂坂はぶんぶんとかぶりを振った。

「いや、樋川さん今日はよく笑うなって、なんでだろなって」

 すると樋川はニヤリといたずらに口角を上げる。

「教えてやんない!」

 そうして樋川は机に置いてあった缶を穂坂に投げる。穂坂はびっくりしながらも、腕を伸ばしてキャッチした。手に馴染みのいい、ひんやりとした感触。

「やっぱブラックじゃないですか」

「はい文句言わない」

 穂坂はプルをプシュッと開ける。それから事務所の窓へ向いて、くいっとコーヒーを飲んだ。いつもの街のあびる太陽が、日増しに燦々と暑さを増している。初夏がじわりと盛夏へ向かっていく。日を浴びた指の甲は日に焼かれて暑く、缶を持つ指の腹は熱を吸われて冷たい。窓からひと吹き、風が通る。未だ湿度の低い涼やかな風は、さっき食道を通ったブラックコーヒーのようだった。

「ああ、前職の、まあ新聞社の上司がさ」

 樋川が思い出したように声をかける。穂坂が振り返ると、樋川も丁度缶コーヒーに口をつけたところだった。缶を置いて、ふっと息をついて樋川はこちらを向く。

「面接するときに、なんでもいいからコラムを書いてきてくれないかって」

「コラム?」

 穂坂も缶を机に置いて、肘をついて体重を前へ。樋川はウン、と頷いてスマホを手に取る。その上司とのラインでも探すのだろう。

「雑感でも何でもいいって。純粋な文章力が見たいって言ってたかな」

 樋川がすいすいと画面に指を滑らせるのを横目に、コラムかぁ、と穂坂は考える。何が良いだろうか。雑感といったって、面接に使うのに心にもない事を書くわけにもいかない。なにか……と机の上を見回して、目に入った。さっき樋川が自分の頭を叩いた、ペン立ての中で光をこぼす万年筆。

「じゃあ、緒月さんのこと書こうかな」

 樋川がこちらを見た。穂坂は、やけに肌馴染みのいい万年筆を取って、くるりと回す。

「折角だから、この万年筆で」

 ペン先にこびりついた黒いインクが、つやり、と夏の光を反射した。

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