4

「運命が、有るとしたら」

 緒月が呟いた。枯れた喉から漸く捻り出した声だった。小橋は言葉が継がれるのを待つ。しかし、緒月は口を開かずに、目だけで小橋の返答を待っていた。

 小橋は緒月をじっと見た。無事に残った家の畳に敷いた布団に緒月は仰向けで寝かせられている。左肩と腹に巻かれた包帯には僅かに血が滲む。それから消毒だけされた左手の傷も酷い。こいつは左の指を失うのかもしれない、と僅かに思った。

 枕元の蝋燭が揺れる。小橋は緒月の乾いた唇に水を数滴垂らす。緒月は一瞬苦しそうに身じろぎをして、それから肩の力を抜いた。

 小橋は昼間の緒月を思い出した。海からの轟音に呆然とする子供らの手を引いて、一生懸命に防空壕へ押し込んでいた。馬鹿野郎、避難誘導は警官の仕事だ。だからこうしてやられているんだろうが。怪我を負った緒月を担ぐとき、砲弾が直撃したさっきの防空壕は緒月に見えないようにした。

「運命だと」

 小橋は緒月の問いの真意を図ろうとした。が、緒月は自分を見つめるだけだ。見舞いに来るんじゃなかった、と思ったが、一方でどのみち逃げられなかったのだとも思った。少なくとも昨日、防空壕で緒月とは秘密を共有してしまった。

「運命なんて、あってたまるか」

 突飛な問いは、どうせ例の不思議な夢で何か見たのだろうと予想がついた。小橋は詮索を諦めて、突飛な問いに付き合ってやることにした。

「全部こうなると決まっていたなら、ここまで必死に足掻いてきた事も空しくなるだろう」

 自分は寡黙な方だと思う。酒が入れば幾らか喋るが、それでもすぐに聞き手に回る。けれど今は相手がだんまりだ。だからだ、とうまい理由が見つかったから、小橋は脳に浮かぶままに言葉を吐いた。

「前に、俺は自分の話をしないと言ったな。言ってやろうか。俺は、この人生が運命だったなんて言われたら、気を違えてしまうだろうな」

 蝋燭の火がふるりと揺れる。乾いた、土臭い風が過ぎる。雨でも降れば全て洗い流してくれるのだろう。しかし、今降ればきっと雨粒は緒月の傷を冒して腐らせてしまう。小橋は心もとないともし火を見つめた。

「育ての親が、二・二六に連座して、殺された」

 緒月の目が、語り出した小橋の炎に照らし出された影を、ぎょろりと映していた。

「連座たって、動員された連隊の末席だったよ。だから俺に罰が下ることは無かった。それでも親父は、本気で志に殉じた」

 炎を見つめる小橋の目は何かを責めているようだった。何を責めているのかは、小橋にも分からない。

「何が志だ。あれは洗脳だ。死んでしまえば終わりじゃないか」

 小橋は慎重に、腫れ物を触るように右手の手袋を脱いだ。そういえば、この男はどんな時も手袋をしていたな、と緒月はぼんやりと思う。欠けた指を蝋燭が照らす。

「死んだら終わりだとは、親父が最初に言ったんだ。血を流して倒れて、目を覚ました俺を引っ叩いて言った。だってのに自分が死にやがる。俺は親父の横っ面を引っ叩けなかった」

 指の陰影を、小橋は見つめた。

「親父の連座の汚名を甘んじて受け、その上で育ったこの街の警吏になったのは、手の届く、この足りない手でも届く市民を確実に守りきることが、親父への復讐になると思ったからだ」

 そう言い切ってから、小橋は緒月の方を向いた。緒月には、その眉が心なしか力なく下がっているように見えた。

「けど、俺は何も守れなかったみたいだな。鳴かない雉も結局は撃たれる、か」

 緒月はまばたきをする。瞳に、僅かながら力が宿っているのを認めて、小橋は少し安心した。

「さっぱり言ってはみたが、これでも苦労した。自分で選んで苦労してきた自負がある」

 小橋は再び火を向いて、口をつぐんだ。しばし、静寂が下りる。二人のほか、誰の呼吸も聞こえない。誰もが、この自分さえも土くれになったような錯覚。

どれだけ経ったか。緒月が再び何か声を捻り出そうとした。小橋は緒月の口を見る。しかし、喉が枯れていたらしい。声にならない言葉の意味を推し量ることはできない。なにか、と小橋は部屋を見渡して、気づいた。部屋の隅に置かれた机に、万年筆がインクと共にゴトリと置かれている。昨日、地面に突き立てられたものだ。

小橋は机に近寄って、インクの固い蓋をこじ開ける。そして、そっと万年筆を手に取った。ひんやりとしたそれは、よく見れば塗装の薄くなってるところが丁度指の当たるところだった。まさしく、書いて書いて書きまくった末の瑕疵だ。

 小橋は恐る恐る万年筆の尾栓を回してゆるめ、ペン先をインクにつける。闇のようなインクだ。全ての光を吸い込んでしまいそうな黒。この色から緒月は物語を紡ぐのかと思うと、ぞくりとした。

 これで合っているのかと不安を感じながら、尾栓を締めていく。万年筆を使ったことの無い自分からすれば、傍目ではインクが入っているのか全く分からない。尾栓を締め終わって、インクからペン先を上げる。ペン先全体についた粘度の高いインクが先端へ流れ、小さな雫を作ってぽたんと落ちる。あらわになったペン先の鈍い金色が、蝋燭の光に揺らした。

小橋は服の袖でペン先のインクを拭きとって、机の隅に置かれていたぼろ紙を掴む。何故だかどきどきと音を立てる胸を抑えながら、小橋は緒月の枕元へ戻った。

「言いたいことがあるなら、書け」

 万年筆を緒月の右手、傷からからがら逃れた指に握らせる。指は万年筆を力なくつまんで、下に敷いてやった紙にこわごわと線をつけた。

『わたしはしぬらしい』

 がたがたの字で、そう書いた。小橋は弾かれたように緒月の目を見る。先程までぎょろりとしていた目は一転、濁っていた。夢か。あの夢がそう言ったのか。まるで死神だ。緒月のいのちの蝋燭を燃やすだけ燃え上がらせて、さっさと蝋を溶かしてしまった。

「馬鹿を言うな。持ち堪えられれば良くなると言われたのだろう」

確か看たのは看護婦だった。小学校教師である緒月の教え子だったらしい。彼女だってぼろぼろなのに、恩師のためにと包帯を巻いてくれたのだ。病院はもう溢れかえっていて、諦められた者の呻きが道に転がっている。軽傷者や更なる爆撃を恐れる市民たちは、明日の朝登別や苫小牧へ逃げようと企てている。しかし室蘭の情報を、他地域に漏洩する訳にはいかない。小橋はこの後、室蘭封鎖の包囲のために駆り出される予定である。

だからこの混乱の中で治療を受けられたことは不幸中の幸いだった。僅かでも光があるならすがることができる。

が、合点がいった。緒月の傷は治るのに長いだろうが、今すぐに命にかかわるものだとは思えなかった。それなのに緒月はずっと、教え子に包帯を巻かれている時でさえ、諦めきった顔をしていたのだった。

 小橋は急いで緒月の口に水を垂らす。もっといい方法があるのかもしれなかったが、小橋にはこれが精一杯だ。限られた水だし、あまり多く垂らすと唇の隙間から溢れてしまって、包帯を濡らしてしまう。一滴一滴、さっきペン先から落ちたインクのように、小橋はハンカチを使って、慎重に緒月の唇へ水を垂らす。垂らしながら、小橋は脳を絞るように、言葉を探して零していく。

「夢は、夢だろう。まさか、未来を見たと、そう思うのか」

 小橋の額にはわずかに汗が滲んでいる。自身も、綺麗な水を満足に飲めていない。それでも、小橋は緒月に水を垂らす。

「未来だというなら、考えがある。お前が死んで、その未来に、誰が伝える」

 緒月の目が、小橋の方を向いた。

「ここで死んで、お前の小説を、誰がまとめる。柱は卒塔婆どころか、切れ端の集まりにしか、ならないんじゃないのか」

 唇に、渇いたところが無くなった。小橋はハンカチを緒月から離す。緒月の目に、幾分か光が映っているように見えた。小橋はほっと胸を撫で下ろした。

 気が抜けて、小橋はくるりと部屋を見渡す。ふと、先程の机の横に積まれている紙束が目に入った。近寄って、手に取ってみる。そこにはぎっしりと並んだ、端正な文字。インクは深い深い黒色だ。

「これが、お前の小説か」

 小橋は、紙束を持って緒月に向ける。緒月は「良ければどうぞ」とでもいうように、わずかに目を細めた。小橋の喉が鳴る。この手の中に、こいつが命を賭したものがある。

 小橋はこわごわと紙束をめくる。生きた万年筆の字を目で追って、小橋は息を呑む。呑んでしまった。気がつけば、物語世界に立っていた。

紙束をめくる手が急き立てられて早くなる。滲んだ汗がこめかみを伝う。足りない指がじっとりと紙に吸い付いては、めくる度にべり、と剥げる。ずっと何かから逃げているような心地がした。喉が嗄れて、神経は研がれ、叫びたい衝動が亡霊となって襲う。打ちひしがれ、しゃがみ込みたくなって、それでも足は、紙を捲る手は止まらない。

最後の一枚をめくって、小橋は生唾を飲む。顔を、上げられない。

「お前は、何を伝える気だ」

 緒月の顔を、見ることができない。

「温度が分かる、それだけじゃないだろう。匂いが分かる、ことからお前は、何を叫ぼうとしている」

 緒月は身じろぎもしない。しかし小橋は分かった。その目は、今までになく鋭く、小橋の見張った双眼を捉えていた。

「言葉がもつ力は、恐ろしいぞ」

 漸く小橋は理解した。何故特高は多喜二を殺したのか。

「今更」

 緒月が、酷く掠れた声で言った。掠れている筈の声が、小橋の胸に深く重く沈んだ。

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