8-②


 美緑の親戚しんせきが葬式の後片づけをしている中、俺は一人で外に出る。

 営業職らしきサラリーマンが、イヤホンで音楽を聴きながらきびきびと歩いている。同じ制服を着た高校生の集団が、楽しそうに笑いながら通り過ぎていく。

 世界はこんなにもいつも通りなのに、美緑はもういない。

 その事実だけが重く肩にのしかかってきて、とっくに枯れたと思っていた涙が、頬を一筋流れた。すると、せきを切ったように悲しみがあふれてきて、涙が止まらなくなった。

 通りから見えない場所に移動する。

 あのとき、勇気を出して体調が悪そうな美緑に声をかけていれば……。

 どれだけ過去を悔やんだところで、美緑はもう戻ってこない。

 ならば――過去を変えるしかない。

 美緑の死は、俺の人生にとってエラーだった。だが幸い、書き換える部分はわかっている。十一年前の、昼休みだ。

 数日前に戻って、美緑に検査を受けさせることも考えた。しかし、医師の言っていたことが気になった。

 いつ死んでもおかしくない。

 今まで倒れなかったことが、むしろ奇跡みたいなもの。

 仮に改めて検査をして、脳に異常が見つかったとする。当然手術をすることになるだろう。だが果たして、その手術は成功するのだろうか。失敗する危険性だってある。

 力を使って戻っている間は、そこからさらに力を使うことはできなくなる。

 黒猫の姿をした神様は、そう言っていた。

 つまり、巻き戻した世界で美緑が死んでしまったら再び戻ることはできないし、美緑が死ぬたびに力を使っていてはきりがない。

 では、いつまで戻れば美緑の生存は確実になるのだろうか。そんなこと、俺にはもちろん、医師にもわからないだろう。

 それならば最初から、死に至った原因そのもの――十一年前のあの日の出来事をやり直すしかない。

 そして俺は、力を使うことを決めた。

 一度使ってしまったら、後には退けない。

 十一年前へ戻って、もう一度――。

 もう一度、築き上げよう。美緑の幸せを。

 力の副作用は、戻す時間の五倍。十一年の五倍で、五十五年。

 俺の人生の大半を犠牲ぎせいにしてでも、美緑の生きている世界を取り戻す。

 彼女がいない世界なんて、俺にとっては何の意味もないのだから。

 ――本当にいいのか?

 誰かが脳内に語りかけてくる。男とも女ともつかない、それでいて独特の魅力を感じる不思議な声。足元に視線を落とすと、あのときの黒猫がいた。

「ああ、お前か。久しぶりだな」

 涙をぬぐって、俺はしゃがみ込む。

 ――およそ十年ぶりか。まあ、神にとっては一瞬だがな。

「俺も今日は黒だ。お揃いだな」

 喪服もふくはそれ自体も重いが、何より着る人間の心を重くさせる。

 ――うむ。

 黒猫の返事は、固い声色だった。

 きっとこの小さな神様は、俺の身に起きたことをわかっていて現れたのだろう。それと、俺がしようとしていることも。

「一番大事な人がいなくなっちゃってさ。もしこの力がなかったら、たぶん後を追って死んでたと思う」

 ――そうか。

「ああ。だからさ、ありがとな」

 お前がこの力を与えてくれたおかげで、俺は美緑を救えるかもしれない。

 ――すまんな。

「どうして謝る?」

 黒猫の表情なんてわからないけれど、どうしてか神妙しんみょう面持おももちに見えた。

 ――もしワタシがもう少しくらいの高い神であれば、副作用はもっと少なかったはずだ。

 戻した時間の五倍の寿命を、代償として払わなければならない。たしかにその副作用は、人間にとっては非常に大きなものだった。

「そんなことか。いいよ。美緑を救えるだけでも十分だ」

 それは紛れもなく、俺の本心だった。

 ――貴様は、自分が何をしようとしているのか、わかっているのか?

「ああ。お前は俺を止めにきたのか?」

 俺と黒猫はそのまま見つめ合う。突き刺すようなするどい眼光は、さすが神様といったところか。

 ――いや、想い人が亡くなって、自棄やけになっているだけなら止めるつもりでいたが、貴様の目を見たら大丈夫そうだ。たしかな覚悟が見える。

「そっか。心配してくれてありがとな」

 ――心配などしとらんわ! ほら、早く力を使え。もたもたしていたらその五倍分、寿命が持っていかれるぞ。

「おう。言われなくても。最後に一つだけ、頼みがあるんだけど、いいかな」

 ――なんだ?

「これ、一緒に過去に持っていけないかな」

 俺は〝あるもの〟を示しながら言った。

 ――それくらいならできないことはないが、リスクがあることはわかっているのか?

「うん。わかってる。でも……」

 ――どうなっても知らんぞ。

 黒猫は少し心配そうな声音で言うと、尻尾しっぽを左右に振る。

 すると、俺の持っている〝あるもの〟が、青く光った。

「ありがとう。それじゃあ行ってくる」

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