ふざけんな。美緑を返せ。どうして美緑が死ななくちゃいけないんだ!

 そう怒り狂いながら、目の前の医師につかみかかることもできた。それくらいの、世の中の理不尽りふじんに対する怒りはあった。

 けれども、そんなことをしたって、美緑は戻ってこないこともわかっていた。ただ、悲しさが増すだけだ。

 ある程度冷静になった俺は、医師から説明を受けた。

 職場である幼稚園で、彼女はいきなり倒れた。同僚の通報によって救急車が呼ばれ、この病院に運ばれたらしい。

 脳の血管が細くなっていて、そこに血液が詰まってしまい……。

 そんなことを医師は言っていたが、細かいことはあまり聞いていなかった。

 もはや、死因なんてどうでもよかった。美緑がこの世界からいなくなってしまったということだけで、俺が絶望するには十分だった。

 その後は、医師や看護師に心配されながらも病院を後にした。

 どうやって家に帰ったのかも忘れてしまった。

 気づいたときには、俺は自宅のリビングでソファに座り、静かに涙を流していた。

 これがただの悪い夢であったら、どれだけよかっただろうか。

 本棚に詰め込まれている本は、七割以上が美緑のものだった。彼女は、寝る前には決まって本を読んでいた。

 床にはゴミの一つも見当たらない。綺麗好きな美緑は、いつも楽しそうに鼻歌を歌いながら掃除機をかけていた。

 出窓に飾られたラベンダーの鉢植えは、去年の結婚記念日に俺がプレゼントしたものだ。美緑は慈愛じあいに満ちた表情で、毎日欠かさずに水をやっていた。

 今座っているソファも、美緑が選んだものだ。かなり高い値段を見て、俺はもっと安いのでいいじゃないかと反対したが、珍しく美緑は自分の意見を押した。結局、座り心地が良くて俺も気に入った。

 この家にいると、嫌でも美緑の痕跡こんせきが目に入る。

 だからといって、家の外に出る気力もない。

 今になって喪失感がこみあげてくる。その喪失感そうしうかんを体の外に追い出すかのように、あふれる涙は止まらなかった。

 俺の幸せだった世界は、呆気あっけないほど簡単に反転してしまった。

 そしてこのときはまだ、俺自身が奥の手を持っていることも、頭から抜け落ちてしまっていた。


 美緑の死から数日後、彼女の葬式そうしきり行われた。

 美緑の両親や、美緑の弟であるつばさに手伝ってもらい、彼女と別れる準備を整える。

 美緑の両親は、目の下に濃いくまを作って、まるでロボットみたいに淡々と動いていた。感情を全て殺しているように、俺の目には映った。

 僧侶そうりょ読経どきょう。会場のあちこちからすすり泣きが聞こえた。美緑がたくさんの人に愛されていたことを、そこで改めて思い知る。

 美緑の母親はとうとう耐えられなくなったらしく、まるでダムが決壊したかのように、激しくむせび泣き始めた。その隣の父親も、左手で妻の背中をさすりながら、右手で顔をおおっている。

 美緑の両親は、とても温かい人たちだった。美緑と結婚した俺に対しても、実の息子のように接してくれた。

 読経が終わると、焼香しょうこうの時間となった。

 美緑の死をいたむ人が、香をいて合掌がっしょうしていく。一人ひとりに頭を下げる。俺と美緑は同じ中学、高校ということもあってか、見知った顔が多かった。

 砂生さそう彩楓あやかも、そのうちの一人だった。同じ高校で、美緑と仲の良かった女子。その関係で、俺も彼女とは親しくしていた。今の彩楓は、普段の凛とした様子が嘘のように、まぶたらしている。

 葬式が終わった後、何人かの知人から様々な言葉をかけられた。そのほとんどがなぐさめるような内容で、俺はそれを流すように聞き、上辺だけの返事をしていた。

 一番心に残っていたのは、ある男からの衝撃的しょうげきてきな台詞だった。その言葉は、まるで追い打ちのように、俺の心を強く揺らした。

「俺も、好きだったんだ……」

 誰のことが、とは言わなかったが、すぐに美緑のことだとわかった。

 その男は、中学、高校が一緒の、仲のよかった男子だ。美緑ともよく話していたが、恋愛感情を持っていたとは思わなかった。

 彼の台詞には、俺に対する非難が含まれているような気がした。

 ――お前のせいで美緑は死んだんだ。お前が、ちゃんと美緑を守ってやれなかったから。

 美緑の死は、俺がどうあがこうと阻止できるようなものではなかった。

 それがわかっていても、罪悪感と自己嫌悪でどうにかなりそうだった。


 胸にぽっかり穴が空いたとか、そんな言葉ではとても表せないほどに、俺は自身の存在価値を見失っていた。

 愛する人のいなくなった世界で、生きている意味なんて一つもない。

 けれども死ぬ気力もない。

 空っぽのままで葬式を終え、やってきたのは今まで以上の寂寥感せきりょうかん喪失感そうしつかんだった。

 これまで生きてきた意味が、これから生きていく理由が、俺の中から失われてしまった。

 美緑の命は二十五年で終わった。

 彼女は、もっと生きて、もっと色々なものを見て、聞いて、体験するはずだった。

 俺が、彼女をもっと幸せにするはずだった。

 あまりにも理不尽すぎる運命を、強くのろった。

 美緑の葬式が始まる前から、ずっと考えていたことがある。

 俺は特別な力を持っている。それを使えば、美緑を助けることができる。その特別な力は、きっとこのときのためにあったのだと思う。

 しかし、その力には非常に危険な副作用があって――。

 考えをまとめる時間が必要だった。

 いや、すでに心の奥では、考えは決まっていた。あとは覚悟の問題だった。

 もしも美緑の幸せが戻ってくるのなら、俺は――。

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