駅前に建つ、五階建ての古びたビル。ちょうど真ん中の三階。

 俺の勤める企業のオフィスは、いかにもそれっぽい場所に収まっている。

 服装はかなり自由で、きっちりしたスーツから、地味な大学生風のファッション、くたびれたジャージまで様々だ。

 時刻は正午を少し過ぎたところ。作業をしている者は約半数。普段から全体的に緩い雰囲気ふんいきのオフィスだが、一日の中でより一層おだやかになる時間帯だ。

 コーヒーの香りや、お菓子の甘い匂いが漂ってくる。

 キーボードを叩く音に混じって聞こえる雑談の声からも、かなり自由な社風がうかがえる。

 だからといって、会社として機能していないわけではない。

 不真面目な人間もごく少数いるにはいるが、基本的には自分に与えられた仕事はきっちりこなすタイプの社員がほとんどだ。

 仕事がきりの良い場所まで進んだところで、俺は休憩きゅうけいをとることにした。

 休憩も各自好きなタイミングでとることになっている。連れ立って外に食べに行く人もいるが、俺は基本的にデスクで一人飯だ。

 美緑の作ってくれた弁当を開ける。昨日のおかずの残りと白米。いつも通りのメニューだ。決して手が込んでいるわけではないが、朝早くに作ってもらっている手前、文句は言えないし言うつもりもない。味も問題ないどころか、そこら辺の定食屋やファミレスよりも美味しい。

 美緑の手作りの幸福が、作業中には自分でも気づかなかった空腹を満たしていく。

 弁当を食べ終えると、ペットボトルの緑茶を飲んで一息ついた。

 いつもならば、昼食の後はすぐに作業に取りかかるのだが、今日はどうも気分が乗らない。うっすらと眠気も感じる。

 あと十分くらい休んだら再開しよう。椅子いすから立ち上がり、大きく伸びをする。ストン、と再度着席し、大きく息を吐き出す。

 ネットニュースでも見るか。

 俺はポケットからスマホを取り出す。電源を入れて画面を表示すると、三件の着信があった。

 約五分おきにかかってきているようで、その全てが美緑からだった。

 どうしたのだろうか。

 美緑とは普段から、メッセージのやり取りはよくしている。しかし、平日の昼間に着信があるというようなことは初めてだった。

 二人の間で、仕事中に電話をするのは緊急を要する場合だけだと決めてある。

 背筋に冷たいものが走り、心臓が早鐘はやがねを打つ。

 眠気は吹き飛んだ。

 悪い予感が全身を駆け巡る。

 こちらからかけ直そうとした、ちょうどその瞬間。スマホが、美緑からの四回目の着信を知らせた。

 震える指ですぐに応答し、廊下に出る。

 頼む。くだらない用事であってくれ。操作ミスでも何でもいい。とにかく無事でいてくれ。

 美緑の身に何事もないことを心で強く祈りながら、スマホを耳に当てる。

「……はい」

 自分の心臓の音が聞こえる。

〈もしもし〉

 電話に応答した声は、美緑のものではなかった。

 この時点ですでに、俺の不安は最高潮に達していた。

 視界が揺れて、バランスを崩しそうになる。壁に手をついて、どうにか自分の体を支える。

「あの、ええと――」

 おそるおそる声を出す。

柚木ゆずき病院です〉

 電話の相手は、名乗ろうとする俺に構うことなく言った。

 病院……。緊急事態……。電話に出たのは美緑ではない人間。つまり本人は、声が出せない状態――?

〈落ち着いて聞いてください〉

 その言葉がすでに、落ち着いていられないような状況にあることを示していた。

〈あなたの奥様の美緑さんですが――〉

 だめだ。その先を言わないでくれ。

 相手の言葉を聞く前に、俺は階段を駆け下りていた。

 視界と思考が真っ白に染まる。

 気づいたときには、タクシーの中にいた。

 オフィスを出て駅前まで全力疾走し、タクシーを拾って行き先を告げたことはうっすらと覚えている。

 息を切らせて虚ろな表情をしている俺を、五十代と思しき運転手は、ミラー越しに怪訝けげんそうに見ている。

 告げた行き先と俺の様子から、ただ事ではないと感じ取って、運転手もできる限り急いでくれているようだった。

 赤信号がもどかしい。

 やっとのことで柚木病院に到着する。実際には三十分もかかっていないはずだが、俺には一時間にも二時間にも感じられた。

「ありがとうございましたっ!」

 俺は早口で告げると運転手に万札を一枚渡し、お釣りは受け取らずに急いで外に出る。

 病院の入り口を目指して走った。落ち着いてきていた心臓が、再び強く脈打つ。

 受付で名乗り、看護師に案内される。俺の焦った様子に、看護師は早歩きで先導してくれた。

 集中治療室の前で待つこと数分。生きた心地がしなかった。

 俺は祈ることしかできなかった。組んだ両手を額に当てて、現実を直視するのを拒むように、目をギュッと閉じる。

 しばらくそのままの体勢でいた。

 なるべく何も考えずにいようと思ったが、どうしても最悪の想像だけが脳裏のうりをよぎる。

 治療室のドアが開き、白衣に身を包んだ医師が現れた。眼鏡をかけた優しげな雰囲気の男性。その表情からは何も読み取れない。

 男はこちらを見ると、俺の名前を確認した。

 俺がうなずくと、医師は――絶望を告げた。

「できる限り、救命処置は行ったのですが……。残念ながら……」

 世界が、崩れていく。

 思考が、壊れていく。

「運ばれてきたときには、もうほとんど助かる見込みはありませんでした……」

 その後、医師が何か話していたのは聞き取れたが、状況を受け入れることを放棄ほうきした脳では、何一つ意味を理解することはできなかった。

 世界は俺から、最愛の人を奪った。


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