俺がこの力を手に入れたのは、中学三年生のときだった。といっても、いきなり力に目覚めたわけではない。神様を助けたのがきっかけだった。


 風が心地の良い春の日だった。土曜日で授業はなかったが、部活動はあった。

 陸上部の練習を午前で終えた、中学校からの帰り道。

 それなりに進路に悩んだり、他人の目を気にしてみたり。自分が生まれてきた意味とか、答えの見つからない命題について真面目に考えてみたり……。

 というような感じで、俺はごく普通の一般的な中学生を生きていた。

 そんな何の変哲もない日常に、非日常は突然やってきたのだ。

 交差点。カーブミラーで、左から車が接近していることを確認し、足を止める。

 明後日までの宿題が終わってないなぁとか、あの漫画の最新刊はいつ発売だっけとか、退屈な下校中にふさわしい退屈な事柄をボヤっと考えながら、信号が青に変わるのを待っていた。

 目線より数センチ上にある塀の上を、黒い何かが横切って――。

 俺は反射的に視線を向けた。

 狭い塀の上を、四本足で器用に疾走する小さな体躯。その正体は黒猫だった。

 黒猫は軽やかな身のこなしで塀から飛び降りると、そのまま道路に飛び出していく。

 しかし、左側からは車が迫っていた。

 猫は車を見て、驚いたように動きを止めた。

 このままだとはねられてしまう。

 考えるよりも早く、危険だと感じた。

「危なっ!」

 気づいたときには、体が動いていた。

 黒猫の後ろから道路に飛び出す。

 映像がスローモーションになる。

 前方に伸ばした手で猫を抱きかかえ、地面を転がりながら、急ブレーキの音を聞く。

「大丈夫かっ⁉」

 俺は腕の中に問いかける。

 にゃ~ん、と緊張感のない声でそいつは鳴いた。よかった。無事みたいだ。安堵のため息が漏れる。

「ったく。お前、今死ぬとこだったんだぞ」

 なんて言ってみても、もちろん通じるはずもなく、黒猫は俺の腕からすり抜けて地面に降り立った。呑気な顔しやがって……。

 車の運転手は窓を開けて顔を覗かせる。四十代くらいの男だった。俺の無事を確認すると、舌打ちと「危ねえな。気ぃつけろよ」という台詞を残してすぐに走り去ってしまった。

 そりゃ、飛び出したのはこっちだけど、もう少し心配してくれてもいいんじゃないだろうか。ああいう冷たい大人にはならないようにしよう。

 立ち上がって手足を動かしてみると、

「いっ……」

 右足首に痛みが走った。

 折れてはいないようだが、歩くたびにズキズキした痛みを感じる。捻挫ねんざをしてしまったかもしれない。

 なぁ~。腕の中から解き放たれた猫が、俺の方を見て鳴いた。

「ああ、大丈夫。ちょっとひねっただけだから」

 心配そうに俺の顔を見てくるものだから、つい答えてしまう。

 いつもは動物に話しかけるようなことはしないけど、こいつとは意思疎通いしそつうが図れているような気がする。

 もしかして、人間の言葉を理解しているんじゃないだろうか。そんなバカなことを考えてしまう。

 首輪はついていないから、野良猫のようだ。

 猫は俺の足元にすり寄ってくると、負傷した右足首をめた。

「ありがとな」

 その心遣いが嬉しくて、俺は再びしゃがんで黒猫の頭を撫でた。

 なぁ~ん、と猫も気持ちよさそうに、されるがままになっている。

 調子に乗ってあごの方も撫でてみる。猫は拒否することなく、ゴロゴロと喉を鳴らして幸せそうな表情。

 ずいぶん人間慣れしているなと感心したが、まったく警戒しないのもどうかと思う。

「じゃ、俺は行くから。車にひかれないように気をつけろよ」

 そう言って立ち上がった瞬間、違和感が全身を支配する。右足首の痛みが、綺麗さっぱり消えていたのだ。

「あれ……」

 一瞬で治癒ちゆしたのだろうか。いや、さっきまで歩けるかどうかすらわからないほどに痛かったのだ。それはあり得ない……。

 動揺していて、痛みの発生源を左足と間違えていた? そんな可能性の薄い仮説まで持ち出し、左足に異常がないことを確認してそれを否定したところで、さらに驚きが上乗せされる。


 ――治ったか?

 

 音に一本、しっかりした芯が通っていて、それでいて透き通るような綺麗な声。それが、頭の中に響いたのだ。

 耳で聞き取ったものとは明らかに違うその声に狼狽しながら、俺は辺りを見回す。どこにも人の気配はない。

 視線を上に向けても、気持ちいいほどに晴れ渡った青空しか映らない。

 ならば、下か?

 さっき助けた黒猫が、じっと俺を見つめている。

「まさか、お前か?」

 あり得ないとは思いながらも、黒猫に向かって言葉を発してみる。

 ――いかにも。

 再び、明瞭な声が頭の中に直接響いた。

「うわっ!」

 思わず後ずさる。

 ――先ほどは助かった。感謝する。

「なっ、何なんだよお前は⁉」

 ただの黒猫でないことは確かだ。

 ――ワタシか。ワタシは神だ。

 もっと子どもだったら、怖くて逃げていただろう。

 もっと大人だったら、疲労が原因で幻聴が聞こえる、などと思って無視しただろう。

 中学生という不安定な時期だったからこそ、俺は何とか現実を受け止めることができたのかもしれない。

 頭の中に声が響いて、その声の正体は黒猫で……その黒猫が神を名乗っている。

 どうにかこの現状を脳内で処理しようとしていたが、完全に理解の範疇はんちゅうを超えている。思考がまったく追いつかない。

 黒猫が俺の頭に直接語りかけてくる。もし身近な誰かが大真面目な顔でそんなことを言ってきたら、俺は確実に精神的な病を心配することだろう。

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