美緑は幼稚園で働いている。幸いなことに職場は家から近いが、それでも朝の七時には家を出なくてはならない。

 幼稚園児の面倒なんて見たことのない俺でも、幼稚園教諭の大変さは何となくだけど理解できる。

 まだ小さい子どもを預かっているということは、責任だって重大だ。そんな仕事に愚痴の一つもこぼさず、家でも笑顔を絶やさない美緑は、自慢の妻であると同時に、人間として尊敬もしていた。

 その上、毎日俺の弁当まで作ってくれているのだから、もう頭が上がらない。

 少しでも美緑の負担を減らそうと、家事を手伝ったりしてみたこともあった。しかし、掃除機でビニール袋を吸って詰まらせたり、電子レンジで卵を爆発させたりと、手伝うどころか余計な仕事を増やしてしまっていた。

 そんなわけで残念ながら、俺ができることといえば、風呂の掃除と皿洗いくらいだ。

「私、家事は好きだから。気にしないで」

 美緑はそう言ってくれているが……。

 気づくと時計の短針は十一を過ぎていて、もうすぐてっぺんに差しかかろうとしていた。

 目も肩も痛くなってきたし、思考も鈍くなってきた。あともう少し進めたら寝よう。疲れは効率的な作業の敵だ。

 美緑はまだ目の前で読書にふけっている。

「先に寝てなよ。明日も早いんでしょ」

 さりげない口調で俺は言った。

 しかし美緑は、

「ん、まだ起きてる。この本の続きも気になるし」

 と、文庫本に目を落としたまま答えた。

 残りのページ数が少なくなっている。ちょうどクライマックス辺りだろうか。

 おそらく彼女の言うことは本当なのだろう。美緑は、俺が仕事に追われて遅くまで起きているからといって、寝ずに待っているなどと気を遣うようなことはしない。そしてそれは俺も同様だ。

 俺たちはお互いを思いやりながらも、自分の時間を大切にして結婚生活を送っている。

 ちらりと彼女の方を見る。

 内側に癖のついた髪に、シャープな輪郭の顔が収まっている。綺麗な薄茶色の瞳も、長いまつげも、本人が気にしている少し低い鼻も、その全てが愛しい。

 見られていることに気づいたのか、彼女は視線を上げると小さく微笑んだ。

 自分にはもったいないくらいの、最高のパートナーだと思う。

 だからというわけではないけれど、感謝の気持ちを忘れずに、全力で大切にしようと、俺は常に思っている。


 途中で二杯目のコーヒーを淹れながら、美緑は文庫本を読み終え、閉じてテーブルに置いた。満足げな表情をしているから、きっと面白かったのだろう。彼女は目を細めながら、綺麗な指を組んで天井に向け、ぐぐぐっと背伸びをした。

 その瞬間、テーブルの上に無造作に置かれたスマホが震えた。美緑はスマホを手に取り、自分の元へと引き寄せようとして――。

「あっ」

 俺が気づいたときには遅かった。

 彼女の腕がマグカップに当たり、倒れる。つい数分前に淹れたコーヒーがこぼれた。

「あっ」

 こちらは美緑の口から発せられた声。

 まだ残っていた茶色の液体が、テーブルの上に流れて広がり、彼女の膝へ――。

「熱っ……」

 膝を押さえて顔をしかめる彼女を見て、俺は使

 戻す時間は五秒間――。


 五秒前と、一ミリたりともたがわず同じ場面。再び美緑のスマホが震える。ここで言う、再び、というのは俺にとってだが。

 美緑のスマホをつかんだ手が、先ほどと同様にマグカップに当たりそうに――。

「おっと」

 今度はしっかり反応して、美緑の腕が当たる前にマグカップをどけた。

「あっと、危なかった。ありがと」

「ん、気をつけて」

 

 俺はまだ、この不思議な力のことを誰にも言っていない。もちろん、美緑にも。

 きっとこのまま、誰にも言うことはないのだろう。

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