3
美緑は幼稚園で働いている。幸いなことに職場は家から近いが、それでも朝の七時には家を出なくてはならない。
幼稚園児の面倒なんて見たことのない俺でも、幼稚園教諭の大変さは何となくだけど理解できる。
まだ小さい子どもを預かっているということは、責任だって重大だ。そんな仕事に愚痴の一つもこぼさず、家でも笑顔を絶やさない美緑は、自慢の妻であると同時に、人間として尊敬もしていた。
その上、毎日俺の弁当まで作ってくれているのだから、もう頭が上がらない。
少しでも美緑の負担を減らそうと、家事を手伝ったりしてみたこともあった。しかし、掃除機でビニール袋を吸って詰まらせたり、電子レンジで卵を爆発させたりと、手伝うどころか余計な仕事を増やしてしまっていた。
そんなわけで残念ながら、俺ができることといえば、風呂の掃除と皿洗いくらいだ。
「私、家事は好きだから。気にしないで」
美緑はそう言ってくれているが……。
気づくと時計の短針は十一を過ぎていて、もうすぐてっぺんに差しかかろうとしていた。
目も肩も痛くなってきたし、思考も鈍くなってきた。あともう少し進めたら寝よう。疲れは効率的な作業の敵だ。
美緑はまだ目の前で読書にふけっている。
「先に寝てなよ。明日も早いんでしょ」
さりげない口調で俺は言った。
しかし美緑は、
「ん、まだ起きてる。この本の続きも気になるし」
と、文庫本に目を落としたまま答えた。
残りのページ数が少なくなっている。ちょうどクライマックス辺りだろうか。
おそらく彼女の言うことは本当なのだろう。美緑は、俺が仕事に追われて遅くまで起きているからといって、寝ずに待っているなどと気を遣うようなことはしない。そしてそれは俺も同様だ。
俺たちはお互いを思いやりながらも、自分の時間を大切にして結婚生活を送っている。
ちらりと彼女の方を見る。
内側に癖のついた髪に、シャープな輪郭の顔が収まっている。綺麗な薄茶色の瞳も、長いまつげも、本人が気にしている少し低い鼻も、その全てが愛しい。
見られていることに気づいたのか、彼女は視線を上げると小さく微笑んだ。
自分にはもったいないくらいの、最高のパートナーだと思う。
だからというわけではないけれど、感謝の気持ちを忘れずに、全力で大切にしようと、俺は常に思っている。
途中で二杯目のコーヒーを淹れながら、美緑は文庫本を読み終え、閉じてテーブルに置いた。満足げな表情をしているから、きっと面白かったのだろう。彼女は目を細めながら、綺麗な指を組んで天井に向け、ぐぐぐっと背伸びをした。
その瞬間、テーブルの上に無造作に置かれたスマホが震えた。美緑はスマホを手に取り、自分の元へと引き寄せようとして――。
「あっ」
俺が気づいたときには遅かった。
彼女の腕がマグカップに当たり、倒れる。つい数分前に淹れたコーヒーがこぼれた。
「あっ」
こちらは美緑の口から発せられた声。
まだ残っていた茶色の液体が、テーブルの上に流れて広がり、彼女の膝へ――。
「熱っ……」
膝を押さえて顔をしかめる彼女を見て、俺は能力を使った。
戻す時間は五秒間――。
五秒前と、一ミリたりとも
美緑のスマホをつかんだ手が、先ほどと同様にマグカップに当たりそうに――。
「おっと」
今度はしっかり反応して、美緑の腕が当たる前にマグカップをどけた。
「あっと、危なかった。ありがと」
「ん、気をつけて」
時間を巻き戻すことのできる力。
俺はまだ、この不思議な力のことを誰にも言っていない。もちろん、美緑にも。
きっとこのまま、誰にも言うことはないのだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます