夜の十一時前。

 俺は居間でノートパソコンを操作していた。カタカタカタ、とキーボードの打鍵音が響く。

 会社から持ち帰った仕事だった。

 俺の職場は大きくも小さくもない、どこにでもあるようなIT企業だ。工学部の情報系の学科を卒業した俺は、就活を適当にこなし、内定をもらった中で一番緩そうなその職場でシステムエンジニアとして働いている。

 今のところ、これといって大きな不満もないし、上司からパワハラを受けたり人間関係に疲れたりとか、そういったこともない。忙しいときは少し仕事の量が増えるけど、それでも十分に自分の時間が取れる。

 大学時代の友人が、会社や上司についてSNSで愚痴ぐちらしているのを見ると、かなり良い職場なのではないだろうかと思う。

 ごくたまに、今日のように職場で終わらなかった仕事を持ち帰ることがあるのだが、同僚に、なぜ残業しないのかとよく不思議がられる。

 これは完全に自分の問題なのだが、俺は残業というものが苦手だった。

 周りから聞こえるキーボードを叩く音が自分を急き立てているように感じ、どうも集中力がもたない。また、通常の業務に比べると、周りの人間から焦りが感じられ、それがこちらまで伝染してくるようなイメージがある。

 つまり、バタバタしている職場よりも、静かな自宅の方が落ち着いて仕事ができるというわけだ。

 現在開発しているシステムは、納期まではまだ時間があるけれど、直前になって焦るのは嫌いだった。コツコツと作業を進めていく方がいい。昔から俺はそういうタイプだった。

「ふぅ」

 キーボードを叩くのをいったん止め、細く息を吐き出す。

 これでもなかったか……。

 エラーの原因がわからなくて困っていた。

 怪しい部分を書き換えてみても思い通りに動いてくれない、という流れをすでに五回ほど繰り返している。

 このシステムを構築しているプログラミング言語は、まだ使い慣れていないものだった。これ以上は、俺の知識ではエラーの原因に見当がつかない。ネットで調べながらそれらしき部分を一つずつ修正していかなくては……。先が思いやられる。

「はい、コーヒー」

 俺がどんよりした気分に浸っていると、頭上から聞き慣れた声が降ってきた。妻の美緑のものだ。遅れて、ほのかなシャンプーの香りが届く。さわやかな柑橘系かんきつけいのいい香り。

「さんきゅ」

 ちょうどいいタイミングで運ばれてきたコーヒーに感謝しつつ、美緑のお気に入りのゆるキャラがデザインされたマグカップを受け取る。

 彼女は俺の対面に座って、文庫本を読み始めた。

 食事も入浴も終えて、普段は一つ結びにしている髪を下ろしたパジャマ姿の美緑が、慣れた手つきで丁寧にページを捲る。残りのページの厚さから察するに、物語の中盤辺りだろう。

 俺は美緑の淹れてくれたコーヒーを口に含んだ。

 口の中に広がった熱くて甘い液体を舌でもてあそぶと、疲れが溶けていくような感覚が全身に広がっていく。

 今回みたいに、俺の分のコーヒーを美緑が淹れることもあれば、俺が美緑の分を用意することもある。

 俺が甘めで美緑がブラック。俺の好みの砂糖とミルクの量は、美緑も熟知している。もちろん、俺も彼女の好みは完璧に把握していた。

 濃厚な香りとまろやかな甘さを感じながら、俺はディスプレイとのにらめっこを再開する。

 ずっと同じ姿勢でいると、体が痛くなる。もう年か、などと思いながら、俺はぐっと背伸びをした。

 すぐ近くの棚から、チョコレートのお菓子を取り出して口に入れる。

「美緑も食べる?」

 まだ半分以上残っている袋を差し出す。

「ん。ありがと」

 小さな手が伸びてきて、個包装されたチョコレートをつまんだ。

 数分後、ようやくエラーの原因らしき部分が見つかり、修正作業に入った。

 俺がその作業をしている間、美緑は話しかけてくることなく、静かに読書を続けていた。

 絵に描いたような理想の夫婦だと、我ながら思う。

 籍を入れ、一緒に住み始めてから三年が経つ。お互いの仕事にも余裕が出てきた。そろそろ子どもが欲しいね、なんて会話もするようになった。

 この先もずっと、彼女と暮らしていくのだろう。もはや確信に近い俺の想像は、とても素敵で、とても幸せなことだ。

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