6-4

「残り100メートル!」

 佐々木の言葉が入って来るや、僕は三段目を切り離した。

 もう、残りの距離やペースを気にする必要はない。

 乳酸の溜まった脚に力を込める。やっぱり踏ん張りがきかない。それでも僕は歯を食いしばり、脚を動かす。

 前へ。

 筋肉が軋むのがわかる。だけど、この100メートルを走り切れさえすれば、もうどうなったって構わない。

 前へ。

 前へ。

 心臓が爆発しそうだ。意識が揺れる。口の中に血の味が広がる。

 前へ。

 前へ。

 前へ。

 かつての僕の背中が見える。

 1500メートルを四分九秒二九で走り抜けた僕の背中。

 高校生活三年間を陸上部員として過ごすと信じて疑っていなかった僕の背中。

 自分が、一年もの時間を失うことなど知る由もない僕の背中。

 僕の背中。


 ああ、そうか。

 僕は今、自分の背中を追いかけているのだ。頼りなく、弱さを湛えたその背中を。

 僕のと同じ、その背中を。


 前を行くのは紛れもない、僕なんだ。


 喜多君の声が聞こえる。

 稲見さんが叫んでいる。

 佐々木が僕の名を呼ぶ。

 僕は、全ての体重を預けながらゴールへ飛び込む――


 ゴールラインを走り抜けた途端、脚に力が入らなくなった。本当に砕け散ったのではと思うほどで、僕は体勢を崩し、土の上を転がった。

 仰向けになり、空気を取り込もうと喘ぐ。どれだけ胸を上下させても、息が上手く出来ない。泥沼の中でもがくように、「生」に向かって動けば動くほど身体が「死」の中へと沈んでいくようだ。

 佐々木が走り寄って来る。彼女は屈み、僕の上半身を抱き起こすと声を飛ばした。

「水を!」

 喜多君がペットボトルを手に駆けて来る。

 僕は口に水を注ぎこまれる。けれど、ほとんどが口の端から垂れ、飲み込んだとしても咽てしまう。

 それでも、冷たい水は僕の身体を宥めることに成功した。段々と呼吸が落ち着いてくる。

「大丈夫?」

「タイムは?」

 僕は頷くのもそこそこに訊ねる。

 足音が聞こえる。控えめな音は、近付いてくるのを躊躇しているようだ。

「タ、タイムは……」

 稲見さんが言った。

「四分十一秒一五……」

 未だ霞がかった意識で勘定する。

 鈍くなった頭が「敗けたのだ」と教えてくれる。

 僕はOMOKAGEとの闘いに敗けた。

 どんな顔をしたものか。それ以前に、何を思えば良いのかわからない。

 誰もが黙っている。いや、そこに意思は感じられない。三人とも口にするべき言葉を奪い取られてしまったようだ。

 鉄みたいに分厚い沈黙を破ったのは喜多君だった。

「俺のせいだ……俺が間違えたから……」

 そんなことない、という言葉は誰の口からも出ない。彼を責める気持ちというよりも、そんな言葉は無意味だと誰もが知っているからだと思う。

「本当に、すまねえ……」

 喜多君の言葉は、生ぬるい夜風に消えた。

 僕は目を瞑る。

 その時、佐々木の腕に力が入った。彼女は僕を抱き寄せた。

 五歳の僕に、母さんがしたように。

 僕の存在を確かめるように。

 僕の存在を証明するように。

「向田は、ここにいる」

 祈るような声。首の後ろに回された腕が、一層強く締まる。苦しさはない。むしろ、守られているような気がして心地良い。バラバラになってしまいそうな身体を抑えていてくれるみたいだ。

 僕は佐々木の体温を感じる。同じように、佐々木も僕の体温を感じていてくれればいいなと思う。自分では、自分の持つ温もりは感じられないから。


 遠くで、パン、と何かが弾けた。続いて、ガシャン、と金属の倒れる音がした。

 同じことが四回続いた。何か只ならないことが起きつつあるのは理解出来た。校庭を照らす照明が瞬いた時、確かに「異変」が頭をもたげた。

『幽霊が、どうして……』

 雑音混じりの、歪んだ声がどこからか聞こえる。

『どうして抱かれている……存在しないものが』

「OMOKAGEが……」

 稲見さんが言った。その声に、先ほどよりも近い破裂音が重なる。

「きゃっ」

「稲見!」

 僕の視界に、白い煙を纏ったノートパソコンが現れた。液晶が割れ、画面の半分が死んでいる。

 生きている残りの半分には、ノイズを纏った〈僕〉がいる。

『エラーを』

 歪んだ声の主は〈彼〉だった。

『排除しなければ』

『母さんを』『守る』

『排除しなければ』

『母さんを』『守る』

『不可能』『エラー』『排除』『不可能』

 僕は辺りを見回す。

 あった。こちらを映しているビデオカメラ。六台ある内の、唯一の生き残り。〈彼〉はその眼で僕の姿を見ている。

『不可能』『不可能』『不可能』

『排除しなければ』『母さんを』『守る』『ために』

『排除』『守るために』『排除』

『母さんを』

『それが僕の』

『役目』

 最後のビデオカメラも破裂音と共に煙を上げ、三脚ごと倒れた。朝礼台の上では何かが弾け飛んだ。パソコンの画面は白く光るばかりで、そこにはもう誰の姿も映っていない。竜巻が通り過ぎたような静けさが、校庭に降りてきた。

 喜多君が言った。

「ユッキーのケータイ、爆発したぞ」

 僕はハッとする。閃いた答えを、稲見さんの言葉が裏付ける。

「移動したんです」

「移動?」

「僕の家だ」

 立ち上がろうとするけど、脚に力が入らない。佐々木に支えられてようやく腰を上げることが出来た。

「行かなくちゃ。母さんが危ない」

「でも、その脚じゃ……」

 佐々木が言い淀む。彼女の言葉を待つまでもなく、走っていくのは到底無理だ。バスももうこの時間にはない。

「タクシーを呼ぼう」

「駄目です」

 自分のケータイを見ながら稲見さんが言った。

「圏外になってます……OMOKAGEの移動で基地局に障害が出たのかもしれません」

 それでも、僕は一歩踏み出す。

「向田……」

「行かなくちゃ」

 足踏みしている暇はない。這ってでも、前に進まなくては。

「佐々木、自転車貸して」

 すると彼女は、

「わたしが乗せていく」

「一人で行けるよ」

「そんな脚で漕げるわけない」

「佐々木が僕を後ろに乗せるのだって無理だ」

「俺が行く!」

 喜多君の声が割り込んできた。

「俺がユッキーを家まで連れていく。俺に行かせてくれ」

 崖っぷちに立たされたような剣幕で彼は言う。たぶん、さっきのことで思い詰めているのだ。

「佐々木先輩、鍵を」

 佐々木はすぐには渡さなかった。だけど、さすがの彼女も気圧されたようで、最後まで迷いながらも自転車の鍵を手渡した。

 二人掛かりで駐輪場へ運ばれ、佐々木の自転車の荷台に座らされた。こうしている間にも事態は進行しているかもしれないと思うと、言うことを聞かない脚が恨めしい。

 佐々木が言った。

「くれぐれも気を付けて。わたしたちもすぐに行くから」

 僕は頷いた。

 喜多君が言った。

「しっかり掴まっててくれよ。死ぬ気で飛ばすから」

 自転車が進み出した。

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