6-3
最初のコーナーに差し掛かる。相手の姿は見えないけれど、僕の目の前を走っているのがわかる。僕は見えない背中を追う。前に出られたのではない。僕が後ろに着いたのだ。焦る必要はない。今はまだ、これで良い。
カーブを抜け、直線に入る。ストップウォッチを手にした喜多君がタイムを叫ぶ。計算通り、自己記録から僅かな遅れ。見えない相手は、確かに僕の前を走っている。
今の僕が心掛けるべきは、引き離されないことだ。幸い、呼吸も落ち着いている。脚にも問題はない。まだ、出すべき力は温存出来ている。勝負を仕掛ける手段が、ちゃんと残っている。
残り七周。再びカーブがやって来る。飛ばし過ぎず、かといって速度を落とさないよう注意する。それでも、どんなに慎重を来しても体力は確かに削られていく。
大丈夫だ。僕は己に言い聞かせる。これぐらい、どうってことない。
「順調順調」
佐々木がトラックの外から言った。彼女に言われると、本当にそうなんだなと思える。
残り1300メートル。心持ち、ペースを上げる。
胸の内で、肺が僅かに持ち上げられるような感覚があった。呼吸のテンポが乱れるが、すぐに整える。この辺りの技術は身体が覚えていた。一年眠っていたからといって、全てが無に帰ったわけじゃない。僕が眠っていただけで、僕の身体は僕であり続けた。意識は途中で途絶えているけど、身体は事故に遭う前と地続きなのだ。
だから、全く歯が立たないという道理はない。
二周目、無理はしない。今のペースを持続することだけを考える。酸素を無駄に使わぬよう、可能な限り頭の不要な部分を照らすスイッチを切る。僕は走る機械になりきる。AIに勝つために心を機械にしなければならないなんて、なんだか皮肉な話ではあるけれど。
構図自体はいつもの一人で走る練習と変わらないのに、やはり何かが違っている。相手の姿は見えないのに、誰かがいるという感覚は拭いきれない。大会と同じだ。いつも通り走ればいいのに、つい他の走者の存在を意識せずにはいられなくなる。もちろん、コース取りなどの駆け引きが発生するので、意識するのは当然の話だ。でも、だとすると、実体のない今の相手がもたらす感覚は何なのだろう。思い込み?
いけない。僕は余計な酸素を使い始めている自分を戒め、スイッチを切る。考えるな。走り続けろ。
三周目に入る。身体がレースに慣れ始めてきた。最初より、気持ちに余裕も出る。トラックを回る海流に押し流されているみたいだ。だけど、ペースを上げるような欲張りはしない。まだその時じゃない。
「残り四周」
喜多君が言った。
身体中のどこにも異変はない。僕はまだ〈僕〉の背中を捉えている。
勝負は最後の100メートルだ。そこで全てを出し尽くす。今の距離であれば、どうにか逆転を狙えなくもない。
「良いペースだよ。そのまま」
佐々木の声を聞きながら、コーナーを曲がる。抜けて、ストレートに入る。
「よし、あと四周!」
――え?
頭で指折り数えていた周回数を勘定し直す。たしか今は五周目の筈だ。
だけど、自信がない。まだ四周目の気もする。一定のペースを保つことに専念していたせいで、一周ずつの境が曖昧になっている。
駄目だ。考えるな。余計な酸素を使うな。そう唱えながら、僕はまたもコーナーに入る。
急に、脚が鉛になったように重くなる。胸が砂を詰められたように息苦しい。
「向田、少しペース上げよう」
バックストレートの入り口で待つ佐々木が言った。よっぽど、彼女に今が何周目なのかを訊きたかった。けど、余計な口を利けるような状況じゃない。とにかくこれ以上、呼吸を乱すわけにはいかない。
見えない競争相手の姿を、本当に見失ってしまった。意識を一つに束ねようとしても、すぐにばらけて上手くいかない。
「大丈夫。焦らないで」
トラックの内側を並走する佐々木が言った。溺れかけたところへ手を差し伸べるような声だった。
「まだ時間はある。ゆっくり、少しずつ」
僕は辛うじて元のペースを取り戻す。次のコーナーも耐えられる。
「残り三周!」
「違う、あと二周!」
喜多君が言うのに佐々木の声が被さる。申し訳ないけど、ここは佐々木の方を信じることにする。
ペースを上げていく。何も言わずとも、佐々木が現在のタイムを教えてくれる。〈僕〉は、コーナー一つ分前を走っていた。思っていたよりも差がついている。更に速度を上げていく。
プランなんて言うと仰々しいけれど、作戦は一応あった。自分を打ち上げロケットに見立て、三段階で加速していくというものだ。
最初の一段目は、残り三周となったところで切り離す。次の二段目は、残り一周半を切った時。最後の三段目は、残り半周、つまり最後の100メートルでの加速だ。この三つの切り離しのタイミングが上手く噛み合えば、僅かだけど光明は見える筈だった。過去形なのは、今の僕が既に一段目の切り離しのベストタイミングを逸し、準備不十分な心持ちのまま二段目の切り離しをしなければならない状況にあるからだ。
度重なる加速は単純に脚への負担になるし、呼吸も乱れる。いたずらに体力を消耗するだけで、得られる効果も薄い。それでも僕は、どうにか当初の計画に流れを引き戻そうと二段目を切り離す。充分な距離が稼げないとはわかっていたけど。
吸い込むことの出来る空気が薄くなった気がする。
足が重い。ぬかるみに嵌まったみたいだ。踏み出しても踏み出しても前に進まない。
前へ。
前へ。
だけど進んでいくのは意識ばかりで、身体は鉛のように重く、ついてこない。
前へ。
前へ、前へ、前へ。
転んだって構わない。重心を前へ移し、意志と引力を以て身体を無理矢理前進させる。数か月前までは走ることすら覚束なかった脚に見えない鞭を打つ。
前へ、前へ、前へ、前へ、前へ、前へ、前へ、前へ、前へ、前へ、前へ、前へ――。
梅雨の間に始まった、練習の日々を思い出す。喜多君も稲見さんも、結局一日も欠かすことなく練習に付き合ってくれた。
そして佐々木も。彼女もまた、自身が部活を引退すると、すぐに僕の練習に参加してくれた。自分は受験生だというのに付きっ切りで並走してくれた。彼女がいなかったら、今でも僕は、1500メートルを完走するのがせいぜいといったところだったかもしれない。
三人は僕のために、尋常じゃない量の時間を費やしてくれた。
僕は、僕の存在を認めてくれた人たちに、まだ何も返すことが出来ていない。
「ユキちゃん」
母さんの声がした。
そこから唐突に、或る記憶が蘇る。
家族が二人きりになったあの日、母さんはまだ五歳だった僕を抱きしめた。
「これからも、お母さんはユキちゃんを守るからね」
僕は母さんの存在を確かに感じた。たぶん母さんも、僕の存在を確かめるために、僕を抱き寄せたのだと思う。僕たち親子は、自分の家族がそこにいることを確認し合った。互いに、この世でたった一人だけの家族だった。
そんな母さんにも、僕は何も返せていない。
どれだけ僕の過去に縋りつこうと、どれだけ今の僕を無視しようと、母さんは僕にとってただ一人の家族だ。そして、生まれて初めて、僕の存在を認めてくれた人だ。
何かを返せた自信はない。
ならばせめて――
「だからユキちゃんも、お母さんのこと守ってね」
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