6-2

 空に居座り続けた真夏の日射しも、完全に没した。校舎からは人の気配がなくなり、周囲の田んぼで鳴く虫の音だけが聞こえるようになった。

 普通なら、こんな時間まで学校に留まることは許されない。だけど、佐々木が陸上部の顧問を通して話をつけてくれた。何をどんな風に頼んだのか詳しくは知らないけれど、校庭や機材の使用許可が下りたのは全て彼女のお陰なのだ。この借りは、いつか必ず返さなければならない。

 校庭を、白い夜間照明が照らし出した。

 トラックの各コーナーに設置されたカメラの三脚が、それぞれ土の上に影を作っていた。その様はどこか、月面着陸の映像を思い起こさせる。

 僕は喜多君を相手にストレッチをし、佐々木と一緒にアップをした。息が切れない程度に走り込み、グラウンドの感覚を確かめる。頭では、実際の走るイメージを膨らませる。自己記録を出した時の走りを思い出しながら、ペース配分を考えるのも忘れない。

 日は落ちても気温は下がらず、湿った空気が体中に纏わりついてくる。風もなく、吹いたとしても生温かいのが撫でる程度だ。

「準備が出来たら教えてください」

 朝礼台に置いたノートPCに向かっていた稲見さんが言った。彼女のボタン一つで、レースは始まることになっている。

 僕は口に水を含みながら頷く。水はなかなか喉を通らない。

 実際のところ、準備に準備を重ねても充分な気がしない。それどころか、練習をすればするほど物足りない気さえしてくる。本番前に息が上がってしまっては本末転倒だとわかっていても、なかなか踏ん切りがつけられない。

 もう一度トラックを走ったところで、佐々木がやって来た。

「もう止めよう。これ以上やったら逆効果よ」

「うん」

 僕は佐々木から、喜多君の方へ目を移す。ストップウォッチの紐を指に掛け、振り回している。次に稲見さん。お祈りをするように手を組み合わせ、じっとパソコンを見つめている。佐々木に戻って来ると、彼女は小さく頷いた。後は僕だけだった。

「わかった」

 朝礼台へ向かう。自然と全員が集結した。

「やっぱ緊張するな」

 喜多君が言った。努めて明るく言ってくれたのだとわかる。

「向田君なら、きっと大丈夫です」

 稲見さんが言った。色々と言葉を取捨選択した末に、そう言ってくれたのだろう。

「勝ったらみんなでお祝いしようね」

 佐々木が言った。

「いいっすね。じゃあ、今度はユッキーの奢りで」

「喜多君は他人のお金で食べてばかりですね」

「人をヒモみたいに言うんじゃねえよ」

「みたいじゃなくてヒモなんです」

 僕は笑った。佐々木も、喜多君と稲見さんも笑っていた。

「みんな」

 僕は三人に言った。

「本当にありがとう」

「それは全部済んでからにしようぜ」

 喜多君の言葉に、他の二人も頷いた。

 僕も頷いた。


 稲見さんに、OMOKAGEを呼び出してもらう。

 キーボードを押す乾いた音が聞こえたと思ったら、朝礼台に置いた携帯電話が跳ね返って来たような速さで鳴動した。

 たちまち空気が引き締まる。

「来ました」

 稲見さんの目配せに従い、僕は電話を取る。

 スピーカーからはホワイトノイズが聞こえる。時折、ブツブツと小石の当たるような音もする。

 電話を耳から離すと、カメラが起動していた。例によって矢印が表示され、指示された方向へ向けると人影が映った。

〈僕〉がいた。

 だけど、今までに見たのとは違う。体格こそ僕と変わりはないけれど、顔の右半分を始めとして身体中至る所にブロックノイズが掛かっている。ノイズの位置は小刻みに変わり、まるで〈彼〉の身体に火が点いているみたいだ。

 化け物。

 そう呼ぶに相応しい物体が、夜間照明の白い光の中に立っている。もちろん、影はない。

『エラーを探知』

 声にもノイズが掛かっている。高音と低音が、剥き出しになった配線のように混じる。

「向田君、ケータイを」

 言われるまま、僕は稲見さんに電話を手渡した。彼女は慣れた手つきで僕の携帯電話にケーブルを繋ぐ。

「これでOMOKAGEの『眼』が整いました」

 確実に「敗け」を認識させるための六つの眼。傍目にはわからないけど、各コーナーに設置した六台のビデオカメラに、血が通い出したような気がする。襲い掛かって来ることはない筈なのに、全身に寒気が走るのを抑えられない。

 奥歯を噛み締めようとしていると、背中に手が添えられた。

「行こう」

 そう言って佐々木は、僕の背中をそっと押した。


 朝礼台の反対側、バックストレートのスタート位置に着く。

 トラックに立つのは僕一人の筈なのに、他に誰かいるような気がしてならない。〈彼〉がもはや単なる電気信号ではなくて、質量を持った存在であることを思い知らされる。

 息を吸い、吸った分より多く吐き出す。

 よし。

 無意味に手首をほぐしながら、スターターとしてトラックの内側に立っている佐々木を見た。彼女の方でも僕から目を離さずにいたらしく、すぐに視線がぶつかった。

 僕は小さく顎を引く。

 佐々木は頷き、朝礼台の稲見さんに向けて手を挙げた。

 稲見さんも応じて、手を伸ばした。

 僕は胸の内でカウントダウンを開始する。

 十。

 九。

 八――

 頭の中で、想像上のコースをもう一度走る。校庭に作った200メートルトラックを七周半。八回目に朝礼台前に着いた時、全ては決まる。今までの苦しさや悔しさの全てがそこで終わる。

 七。

 六――

「五秒前」

 佐々木が言った。

 四。

「三」

 二。

「一――」

 全ての物音が遠ざかった。

 次の瞬間、耳の内側で響く自分の声と、外から聞こえてくる佐々木の声が重なった。

「スタート」

 僕は地面を蹴って、走り出した。四分九秒二九。僕に最大限残された時間。それ以上長く走ることは許されない。

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