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 夢を見た。前にも見たことがある夢だった。

 僕はまだ幼くて、昼寝から目覚めたところだ。部屋の中には誰もいない。でも、話し声は聞こえてきた。

 首を動かすと、居間に続く引き戸が開いている。僕は起き上がり、引き戸の方へ向かう。

 母さんの背中が見える。誰かと喋っているみたいだ。

 僕は声を掛ける。

 けど、母さんはこっちを向かいない。

 もう一度。二度。三度。母さんを呼ぶ。だけど結果は同じだ。

 前と違うのは、「怖い」という気持ちがどこにもないこと。僕は自分の方から、呼ぶのを止めた。

 もう一つ、違うことがあった。

 前は岩のように重かった引き戸が、カラリと開いたのだ――。


 カーテンの隙間から、既に起き出した夏の陽射しが差し込んでいる。

 携帯のアラームを止め、伸びをする。最後になるかもしれない朝は、ここ最近ではないぐらい寝覚めが良かった。

 ベッドを降りて、机に向かう。

 昨日と何も変わらない机。

 変わらずに、封筒が置いてある。

 手書きの文章なんて久々に書いたから、手首が疲れた。最後に手掛けた封筒の字は完全に崩れている。『母さんへ』。一晩経って改めて見ると、鉛筆の握り方もままならない子供が書いたような字だ。

 立ったまま目を瞑り、母さんがこの手紙を読む姿を想像してみる。

 夢と同じで、後ろ姿しか見えなかった。けど、それでも充分、どんな顔をしているのかがわかった。

 僕は封筒を机の真ん中に戻し、部屋を出た。


 決戦は今夜、日没後に行う。走る場所は校庭。自己記録を出したのが、部活の練習中だったからだ。少しでも当時に環境を近づけたかったし、あやかる気持ちもあった。

 集合場所は、学校ということになっていた。

 学校には機材も揃っている。対決では、OMOKAGEに明確な形で敗北を認識させなければならない。単に走っただけでは足りないらしく、僕が〈彼〉のタイムを更新する姿を捉える必要があるのだと稲見さんは言っていた。そのためには、カメラなど撮影機材がある程度整っていなければならず、そうした条件から考えても、やはり学校を選ぶのが得策なのだった。

 夕暮れ時、遠くから吹奏楽部の練習が聞こえるだけの人気のない校舎を進んでいくと、教室には既に稲見さんの姿があった。窓際の席でノートPCに向かっていた彼女は、僕に気付くと泣きそうな顔になった。

「わたしがもっと強力なデコイを作っていれば……」

「稲見さんのせいじゃないよ」

 むしろ、僕はお礼を言う方だ。だけど「焼け石に水」とはまさにこのことで、稲見さんは見る間にしゃくり上げ始めた。こんな所を誰かに見られたら、誤解されるに決まっている。そんなことを思っていると大体タイミング悪く誰かがやって来るものだけど、今回もやはりそうなった。

 喜多君ならまだ笑い話になった。でも、不幸は重なるものだ。トーストを床に落とすと、ジャムを塗った面が下になるように。

「校庭の使用許可、取って来たよ」

 教室に入って来た佐々木は、まず僕に気付いた。

 それから、顔を覆って泣いている稲見さんにも。

「えっと――」

「違うんだ」

 僕は佐々木の言葉を遮った。彼女の顔に何らかの色が差す前に、なんとしても誤解を解きたかった。

「これは、そういうことじゃなくて……」

「そうです……」

 嗚咽の間から稲見さんが言う。

「向田君は……何も……悪くないんです……」

「稲見さん今は何も言わないで」

 ガシャガシャと、金属の触れ合う音が廊下を近付いてきた。

 戸口に現れたのは黒い棒の束を抱えた喜多君だった。

「機材の調達出来たぞー」

 さしもの彼も、三人の間に漂うただならぬ空気には気付いたらしく、数歩入って来ただけで足を止めた。

「……どうした?」

 校庭で練習する部活の音に混じって、稲見さんがもう一度しゃくり上げた。


「優しい子だね」

 視聴覚準備室で、ケーブルの束を抱えながら佐々木が言った。彼女の言葉の主語は「稲見さん」だ。ここに来るまで、僕は稲見さんが泪するに至った顛末を滾々と説いた。

「てっきり向田が泣かせたのかと思ったよ」

 僕もカメラの入ったバッグを肩に掛ける。

「……まあ、原因は結局僕だけど」

 僕が確実に記録を更新できる身であれば、稲見さんは泣かずに済んだ。いや、彼女だけじゃない。喜多君や佐々木にだって心配を掛けずに済んだ筈だ。

「時間がなかった」なんて言い訳に逃げ込むのは簡単だ。けど、他にもっと上手いやり方があったような気もする。もっと多くの時間を、暑さも構わず寝る間も削って走り込んでいれば、もっとタイムを縮めることが出来たのではないか。そんな気がしてならない。

「向田?」

 佐々木の声で、僕はハッとする。

「大丈夫?」

「うん」

 僕は頷く。

「緊張、してるよね?」

 並んで廊下を歩きながら、佐々木が言った。

「しないようには努めているけど」

「わたしだったら、たぶん逃げ出してる」

「佐々木はそんなことしないだろ」

 そうだ。彼女はそんなことはしない。だから一人だけ長く部活を続けるし、事故現場に花を供える。僕のリハビリを、陰から見つめる。

「君は強い」

 何という楽器だか知らないけど、近くで管楽器の低音が響いた。

 佐々木の足が止まった。かと思ったら、彼女はこちらを向いた。

「ねえ、向田」

 僕は何も言わず、ただ息だけを呑み込む。

「最後の瞬間まで、絶対に勝負を投げないで」

 真っ直ぐな、射貫くような眼差し。

「どんな結果になっても、本当に消えようなんて思わないで。誰に何て言われようと、向田が生きている事実に変わりはない。わたしたちの目の前には、ちゃんと向田行人が生きている。わたしや、喜多君や稲見さんがそれを証明する。だから――」

 頭上から、管楽器の合奏が降って来た。

 僕は、三脚を抱えた腕に力を籠める。

「ごめん、先に行ってて」

 そう言い置いて、返事も待たずに踵を返す。男子トイレに駆け込む。

 三脚を壁に立て掛け、水道の冷たい水で顔を洗った。

 蛇口を捻って水を止め、濡れた顔を上げる。目の前の鏡には、当たり前だけど自分の顔が映っている。頬や顎から水を滴らせた、紛れもない、僕の顔が。

 鏡の中の自分と見つめ合う。

 一つ、大きな過ちを犯していた。僕は、僕のために走るつもりでいた。

 だけど本当は、僕に関わり、僕の存在を認めてくれる人のために走らなければいけないのだ。

 勝手に消えることなんて許されない。

 僕は、自分をどうこう出来るほど身軽な立場にはいない。

 僕には、僕が消えたことを悲しんでくれる人がちゃんといるのだ。

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