5-7
それから佐々木は毎日練習に来た。
僕は同じ質問をし、その度に同じ返事を得た。どう考えても、彼女が予備校に通っている様子はなかった。やがて僕は、何も言わずに佐々木の好意を受け取ることにした。それが、彼女の見つけた「答え」なのだと思った。
佐々木にも、僕の置かれた状況を話さないわけにはいかなかった。
僕の話を聞き終えた佐々木は「そう」と言っただけだった。その一言に、彼女の大時化のような胸の内が凝縮されているようだった。
しばしの沈黙の後、彼女が口を開いた。
「走ろう、向田」
自己記録にはまだ遠く、焦りばかりが濫りに積もっていたタイムは、佐々木が来てくれるようになってから徐々に上がっていった。かつての自分に追いつくとまではいかないものの、どうにかその背中を見失わない距離に詰める所まではいけるようになった。後は、残り時間の問題だ。
もう少し時間があれば。
だけど、時間切れの合図は唐突にやって来た。
八月の、蒸し暑い夜だった。
いつも通り練習を終えて帰宅した僕は、玄関の指紋センサーに指を充てた。僕の指紋としてはブロックされているけど、稲見さんの作ったデコイによって、開錠権限のある「ビジター」として鍵を開けることが出来る筈だった。
だけど、何度やってもエラーとなり、玄関は開かなかった。
仕方なくインターホンを鳴らし、母さんに扉を開けてもらった。
「おかしいわねえ。壊れたのかしら」
母さんは首を捻るけど、僕は或る予感を抱いていた。家の中に入り、予感は確信へと変わった。至る所から注がれる視線。昨日までは、いや、今朝、家を出るときまでは感じなかった、何者かによる眼差し。そういったものを僕は、気のせいではなくはっきりと感じ取った。
そして〈彼〉が現れた。
『また君か、幽霊』
僕の部屋に表示されたホログラムは、映像音声共にだいぶノイズが酷い。暴走している証しかもしれない。
僕は言った。
「気付くまで随分時間が掛かったね」
『何を言っているかわからないな。君のことは消した筈だけど』
「母さんは君を処分する気でいるよ」
すると、ノイズ混じりの声が笑った。
『もしかして、僕を揺さぶろうとしているのかい? 無駄だよ。母さんのことなら、僕の方が知っている。君なんかよりよっぽど長く話をしているんだから』
「でも、母さんは君を九月までしかこの家に置くつもりがない。そうなったら君は消える」
『消えるのは君の方だ。幽霊』
ホログラムが言った。
「そんなに僕を消したいかい?」
『消したいね。悪魔みたいに目障りだ』
部屋の灯りが明滅する。昔のホラー映画みたいだ。
「幽霊の次は悪魔か……」
僕は目を伏せる。口を噤み、この状況が通り過ぎるのを待つ。
『――おや』
そう出来るのは、それほど長い時間が掛からないと知っているからだ。
『いよいよ君とも本当のお別れが近いらしい』
僕は手に力を込める。握った携帯電話が、手の中で軋む。
『君を消す最良の手段がわかった』
「へえ。どういうのだい?」
そう問うと、〈僕〉は表情を変えた。ブロックノイズがひどかったのでよくはわからないけど、たぶん笑ったのだと思う。
電話を掛けると、稲見さんはすぐに出た。
「上手くいったみたいだよ」
僕は言った。
『そうですか。良かったです』
だけど、電話口の稲見さんは声が沈んでいる。
『すみません。もう少しは持つかと思っていたのですが……』
「稲見さんが謝ることじゃないよ」
遅かれ早かれ、いつかはこうなるとわかっていた。
正直言って、まだまだ練習が足りない。勝てる見込みは五分にも満たない。
それでも、やるしかない。他に選択肢などないのだから。
『期限は、明日の日付変更までです。限界まで伸ばしたのですけど……』
「ありがとう。十分だよ」
詳しい段取りは明日会って話すことにして、電話を切る。
普段は真っ暗な田んぼ道が、今夜は影が出来そうなほど明るい。満月の光が、稲穂や畦道を照らしているのだ。
僕は月を見上げて、目を細める。
次に満月を見る時、僕はどこで何をしているのだろう?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます