5-5

 本当は黙って帰るつもりだった。だけど、出口を潜った所でケータイにメッセージが届いた。

 差出人は不明。そもそも僕のケータイは、レストランでの一件で水没した際にアドレス帳が全て消えてしまっていた。端末は新調したものの、アドレスはバックアップを取っていなかったので復元が出来ず、付き合いのない人とは連絡手段が永遠に途絶える形となった。回復の方法は、直接会ってアドレスを訊くか、相手から連絡が来るかのどちらかだ。

『二時に終わるから駅前のマックで待ってて』

 佐々木もまた、消えたきりになっていたうちの一人だった。

 駅まで戻り、言われた通りの店に入る。アイスコーヒーを注文し、改札口が見える窓際の席に座った。白昼のロータリーはタクシーや送迎の車、路線バスが時折来るぐらいで、人影は少ない。日本でも屈指の暑さを誇るこの街の、一日で最も暑い時間に出歩こうなんて人はそうはいないのだろう。それを証明せんとばかりに、冷房の効いた店内は殆どの席が埋まっている。

 ストローで啜るコーヒーは、すぐに半分まで減った。僕は白く照らされたガラスの向こうの景色を眺めながら、所在なくプラスチックのカップを手で揺らす。コーヒーと細かい氷が混じって立てるジャリジャリという音を聞いていたら、次第に周囲の喧騒が遠のいていった。

 先ほど見た、佐々木の跳躍が目の裏に蘇る。

 人が自らの力だけで飛ぶ姿。僕はそんなものを、初めて見た。

 たった一瞬だった出来事をスローモーションで引き伸ばし、頭の中で何度も反芻する。回数を重ねる毎に色褪せるなんてことはない。それどころか、思い返せば返すほど、鮮やかで眩しいものに見えてくる。

 形だけじゃない。

 そこに込められた意思も含め、二重の意味で彼女は美しかった。


 コンコン、と硝子が叩かれた。

 いつの間にか落としていた目を上げると、正面に佐々木が立っていた。

「お待たせ」

 店から出てきた僕に、彼女は言った。

 佐々木は店に寄るつもりはないらしく、そのまま二人で改札を潜った。ホームに降りると、丁度僕らの最寄りへ向かう電車が入って来るところだった。

 空いていたシートに、横並びで腰を下ろす。電車が静かに走り出した。

「部活の方はよかったの?」

 僕は訊いた。

 佐々木は頷いた。

「本当なら、もう引退している身だしね。一人で勝手に延長戦を続けていただけだから」

 そう言って肩を竦める彼女のスポーツバッグからは、色紙の端が覗いている。手書きの文字も僅かに見える。色紙全体に渡って、同じようなものが広がっているに違いない。

 向かいの窓を電柱が三本横切っていった頃、佐々木が口を開いた。

「約束、守れなかった」

 約束。僕は口の中で呟く。言葉を舌の上で転がして、「次の大会で優勝してほしい」と同じ口で言ったこと思い出す。

「でも新記録だ」

 おめでとう、と言ったけれど、佐々木の反応は芳しくなかった。

 記録会は結局、佐々木の後に跳んだ相手も一回で成功し、その次の高さでは双方三回とも失敗した。佐々木は高校生活最後の試合を二位で終えたのだ。だけど、彼女の浮かない横顔の原因がそんなところにはないことぐらい、僕にだってわかる。

「――もしかして、そのために引退しなかったの?」

 佐々木は、否定も肯定もしなかった。だけどその沈黙は、後者の意味を湛えていた。

 夜道の電柱に供えられた花束が、また頭を過ぎった。彼女が花を供えた理由が、手向けていた相手が、ようやくわかった気がした。

 僕は静かに息を吸い込み、深く吐き出した。

 アナウンスが次の停車駅を告げる。それが止むのを待っていたように佐々木が言った。

「怒っていいのに」

 何について、とは言わない。言われなくても、主語はわかる。

「怒る理由なんてないよ」

 彼女の鞄から落ちて、道路を転がる鈴。それを追い掛け道路に出る僕。

 そこに彼女の意図はない。悪意なんて存在しようがない。

 それがわかっていながら、僕は「たった一言」が言えずにいる。稲見さんに対しては素直に出てきた「たった一言」が。

 身体は、失った時間をまだ惜しみ続けている。

 電車が駅に着く。ドアが開いても、誰も降りないし誰も乗ってこない。形式だけの停車。

 再び発車し、僕らが降りる駅がアナウンスされる。

 佐々木が言った。

「わたしには、泣いて謝る資格もないのはわかってる」

 エナメルのバッグに置かれた小さな手が、拳を作る。

「だけど、やっぱり言わずにはいられない。言わないと、前に進めない」

 彼女が深く息を吸う音が聞こえる。そこに秘められた、決意の重さを僕は知る。

 佐々木の唇が動く。と同時に、警笛を鳴らした対向列車が窓の向こうを灰色に染めて通り過ぎる。暴力的にも思える音が、佐々木の声を掻き消した。

 いや、違う。

 彼女の声を消したのは、僕自身だ。彼女に謝る資格がないのなら、僕にだって謝られる資格はない。

 これで良かったんだ。俯く佐々木の横顔を見ながら、僕は思う。

「一つ、頼みがあるんだけど」

 佐々木は何も言わない。続きを待っているのだと解釈して、僕は続ける。

「これからは、後ろを見ないでほしいんだ」

 背後の窓を、踏切の音が通り過ぎていく。

 佐々木が言った。

「……前に進むんだね、向田は」

 消えてしまいそうな声。

「誰だって、ずっと同じ場所にはいられないから」

 僕は言った。

 前へ。

 前へ。

 進むしかない。僕たちは、否応なく押し出される。転ばないようにするには、前を向いていなくちゃいけない。

「向田は強いね」

 佐々木が言った。

「僕からしたら、佐々木の方がよっぽど強い」

 僕は言った。自分で自分を戒められる彼女は、危ういほどに強い人だ。

 佐々木の口元に、微かな笑みが浮かんだ。

「今度は約束する」

 その言葉に、僕は頷いた。

 顔を上げた佐々木はしかし、目を伏せる。今度、彼女の唇から漏れてきた言葉は消しようがなかった。

「ありがとう、向田」

 電車が、速度を緩め始めた。

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